「サクラー?」
すっかり暗くなった森の中は冷え切って、声がよく通る。
土を押し上げる木の根を滑らないよう越えながら、サクラを探す。
「サクラ、もう帰るぞ?」
木々の隙間から垣間見えた鮮やかなピンクの髪にそう声をかけた。
聞こえたはずなのに、サクラは奥へ奥へと進んでいく。
「帰るぞー」
その場所からは動かずに、カカシは語尾を長く伸ばした。
それでもサクラは振り向かない。
「まったく……」
頭をかいて、つま先で2回、地面を蹴った。
「サクラ、青い蝶なら……」
オレが見つけた、と言いかけて、その続きを飲み込んだ。
再び、さっきの青い蝶がふわり、と目の前を通り過ぎたから。
「……だからなんで」
なんでオレの前に現れる?
「……サクラ」
蝶が逃げないよう、そっと名前を呼ぶ。
「サクラ、こっちだ」
青い蝶は、カカシの目の前を優雅に漂っている。
それが、うら若い少女がくすくす笑っているように感じられた。
「……かなりおちょくられてるような気がする」
眉間にしわを寄せてにらみつけると、青い蝶は笑いながらゆっくりと空に向かって飛び始めた。
「あっ! ちょっと……!」
群青の空に吸い込まれるように、青い蝶はその輪郭を失っていく。
「サクラ! 青い蝶だ! 青い蝶が……!」
空に手を伸ばしながら必死で叫んでも、数秒遅れて自分の声が残響とともに返ってくるだけ。
ついに蝶の姿は、暗闇の中に消えてしまった。
空を見上げたまま、伸ばした手の先の感覚を確かめる。
しっとりとした空気を握りながら、カカシは軽く笑った。
かろやかに笑いながら、ふわふわと手の中をすり抜けていく。
つかまえようとしても、つかまらない。
……あの蝶は、まるでサクラみたいだな
オレの手の中には入ってこない……
「カカシ先生ー?」
遠くからようやくサクラの声が聞こえると、暗闇を照らすような明るい髪の色が見えた。
「……せっかくなら、もうひとつ願い事を言っておけばよかったかな」
そうつぶやくと、カカシは静かに印を結んだ。
「カカシ先生? 呼んだ?」
サクラはゆっくりと、声のありかを探して歩く。
滑りやすい足元に気をつけながら、木の幹の冷たさを確かめながら。
ようやく暗闇に目が慣れ、遠近のバランスが取れてきたと思ったそのとき、
「あ……!」
ぼんやりと光を帯びた青い蝶が、サクラの目の前を通り過ぎた。
「青い蝶……本当にいた……!」
瞬きも忘れて、サクラは青い軌跡を目で追った。
その美しさに、思わず笑みがこぼれ、うっとりとする。
本当に、願いを叶える力を持っていそうで、神々しささえ感じた。
「私……」
小さく唇を動かして、サクラは一瞬黙り込んだ。
そして、青い蝶を迎えるように、そっと手を伸ばした。
その様子をカカシは陰から見守っていた。
……サクラ
サクラの願いはきっと叶うよ
オレが代わりに伝えておいたから
サクラがずっと笑顔でいられますように、って……
また胸の奥が少しだけ苦しくなった。
でも、もう原因はわかっている。
サクラの手の上に留まった青い蝶は、何度か羽根を動かしていたが、サクラのもう片方の手に覆われると、一瞬強く光ってはじけて消えた。
「……ありがとう」
きらきらと細かい光が降り注ぐ中、サクラは満面の笑みでそうつぶやいた。
漆黒の夜がやってくる前に、二人は森を出た。
ずっと黙り込んだままのサクラに、カカシは声をかけた。
「……青い蝶は見つかった?」
街の明かりを遠くに見ながら、サクラは足元の小さな石を軽く蹴った。
「……いなかった」
「え? だってさっき……」
言いかけて、はっとした。
……さっきのあれは、幻術返しか……
サクラに幻術の才能があるって言ったのは、オレの方だったっけ。
余計なことをして、繊細な心を傷つけたのではないかと、心配になってカカシは次の言葉を探す。
「サクラ、青い蝶ならオレが……」
その言葉を聞いたか聞かないか、サクラはカカシの袖をつまむと、泣きそうな顔で笑った。
「カカシ先生、ありがとう」
「……んー?」
とぼけながら、心の中がざわめき立っているのを押さえることで必死だった。
……今の顔は反則でしょ
ほら、やっぱり胸の奥が痛くなった。
「結局、青い蝶なんていないのかなあ……」
「いや……きっといるよ」
「そうかなあ」
自分が見たから、とは言えずに、カカシはただ笑ってうなづくだけだった。
「でも、もういいの」
「いいのって?」
数歩先まで歩いて立ち止まると、サクラはにっこりと笑って言った。
「カカシ先生の青い蝶の方が、願いが叶いそうな気がするから」
だから私にとっては青い蝶を見つけたのと同じことなの、と言ってサクラは大きく手を振って帰っていった。
気がつけば、カカシはいつもの木の下に立っていた。
風に揺れる大きな枝葉の音が、耳に痛い。
罪悪感にさいなまれる。
……あんなに無防備な笑顔、見せないで欲しい。
「大人はずるいんだよ、サクラ……」
ひんやりとした幹にもたれて腕組みをすると、自然とさっきの光景がまぶたの裏によみがえった。
今にもはがれ落ちてしまいそうな、はかない青をまとった蝶。
きっと、あの蝶は誰かの願いを叶えて、そして息絶えていくのだろう。
あのとき、思わず言葉を選んでしまった。
−−サクラがずっと笑顔でいられますように。
あれは、オレの願いだった。
本当にサクラのためを思うなら、「サクラの願いが叶いますように」って、言えばよかった。
それだけでよかったんだ。
もし青い蝶を見つけたら、ひとつ何かに素直になってみようと思った。
もちろん、見つかるはずはないと高をくくっていたから、そのつもりもなかった。
なのに、蝶にむかって口を開きかけたときに、心の奥で埃に埋もれていた何かが、
勝手に言葉を操ってきた。
青い蝶はそんなオレの心を見透かして、笑っていたんだ。
わざわざ二度も姿を現して、きっとオレのことを情けない男だと笑っていたんだろう。
そうそう素直になんてなれないけど、胸が痛くなったのは、埃に埋もれていた「それ」が動き出したからなんだということだけは認めよう。
「……はあ、認めますよ」
負けを認めるかのように、脱力して、カカシはつぶやいた。
サクラがずっと笑顔でいられますように。
本当にそう思っている。
でも、サクラを笑顔にしてあげられるのは、
もしかしたらオレかもしれないって、
「……それくらい、ちょっと期待したっていいでしょ?」
誰ともなく話しかけるように、カカシは空を見上げた。
青い蝶が消えていった先には、小さな星が輝いていた。
青い蝶 END
zono 2007.10.28
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