船を降りると、その島は「世界の果て」と呼ぶにふさわしい場所だった。
草の一本も生えていない岩場に立ち、男は彼方の空を見上げた。
雲の隙間から、幾筋もの光が差し込んでいる。
まるで、天国へ続く階段のように。
案外、こういう場所に天国の入口はあるのかもしれないな。
柄にもないことを考え、思わず苦笑する。
自分はきっと天国に招かれることはないだろうけど、と心の中で付け足した。
「それって赤いバラ?」
声の方向に視線を移すと、小さな子どもが二人、手を繋いで立っていた。
二人は男に近づくと、何か珍しい物でも見るように目を大きく開き、何度もまばたきをした。
……オレが怖くないのか?
男は怪訝そうに眉をひそめて二人を見下ろす。
全身黒ずくめ、睨みをきかせ、肩で風を切って歩くと誰もが道を開け、目を合わさないようにうつむくのが常だった。
最後に笑ったのは何年前だったか。
いつの間にか、笑い方も忘れてしまったような気がする。
そんなことを考えていると、子どもたちは男の手を取って、にっこりと笑った。
「ママに会いに来たんでしょ?」
少女の方は男の親指を、少年の方は小指をきゅっと掴んで、嬉しそうに引っ張る。
片方の手に二人の子どもが連なっても、とうてい男を動かすほどの力には満たなかったが、男は導かれるままに足を踏み出した。
まるで世界が色を失ったように、モノトーンの岩場が続く。
その中で、鮮やかに発色しているのは、バラの花束だけ。
ゆっくりと坂を上がって行くと、寺院のような建物が現れた。
そして、こちらを見下ろすように立っている一人の女性の姿。
しかし、逆光でその顔はまだ見えなかった。
Wake me up, when the festival ends 〜祭りの後で〜
SANJI x NAMI
花の国、モヌーク王国。
温暖な気候に恵まれたその国は、至る所に黄色やピンク、オレンジの色鮮やかな花が咲き乱れている。
車で一周しても1時間とかからない小さな王国は、周辺国からやって来る観光客でにぎわうリゾート地になっていた。
クルージングに出かける者、カジノやオペラを楽しむ者、誰もが開放的になれるのは、この国がすべての人間を受け入れる自由の国ということもあるのかもしれない。
「チェックメイト」
昼下がりのバールで、チェスを楽しむ二人の男。
一人はくわえタバコの煙をくゆらす金髪の男、そしてもう一人は少しくせっ毛の黒髪、そばかすの目立つ童顔の男。
「……3連敗か。オレもたいがいチェスは強い方だと思ってたが、あんたにはかなわねえな、エース」
エースと呼ばれたその男は、残ったビールを飲み干すと、あどけない笑顔を見せた。
「じゃ、今日の飲み代はサンジのおごりってことで」
そう言って、もう一杯ビールを追加した。
「世の中も、チェスみたいに簡単に動かせたらいいのにな」
チェス盤を片付けながらエースがつぶやくと、サンジは新しいタバコに火を点けて笑った。
「ま、そんなに甘くはねえよ、平和主義者さん。そんなんで父親の跡とやら、継げんのかい?」
サンジの問いかけには答えず、エースはただ笑ってビールを飲んでいる。
傾いたグラスに太陽の光がキラキラと反射するのを見て、サンジは腕時計に目をやると、少し慌てたように立ち上がった。
「やべえ、もうすぐシエスタだ」
「なんだよ、またあの子の所かい?」
エースが呆れた顔で見上げると、サンジはタバコの煙を長く吐き出しながら笑った。
「素敵なレディにはマメなもんで」
後はオレの名前でツケておいてくれ、と言い残し、サンジは太陽の照りつける通りを全速力で走った。
太陽が一番高い時間から夕方までの間は、シエスタと呼ばれ、国全体が長い休憩時間に入る。
過ごし方はそれぞれ。
昼寝をしたり、お茶会を開いたり、恋人と会ったり。
サンジが息を切らして会いに行く相手は、残念ながら彼の恋人ではなかった。ただ、この国に来てしばらくして彼女と出会い、すぐに心を奪われてしまった。
我ながら惚れっぽいのはやっかいな性分だ、と思いながら、サンジは南中の太陽を目を細めて見上げる。
太陽の下を、こんな風に堂々と歩けるのは、あとわずか。
だからなのだろうか、太陽のような存在感を持つ女性に心引かれるのは……
「ナミさん!」
サンジに名前を呼ばれて振り返った女性は、ちょうど花屋の軒先にあるオーニングを低く降ろしているところだった。
「サンジ君」
サンジの行きつけの花屋にいる店員、それがナミだった。
* * *
「赤いバラの花束を作ってくれないか?」
モヌークに来て間もない頃、偶然立ち寄った花屋でサンジはそう言った。
「ごめんなさい、うちには赤いバラを置いていないの」
素っ気なくそう言って、ナミは花の水やりを続けていた。
「そりゃ困ったな……赤いバラ以外でレディが喜ぶ花ってなんだろう?」
独り言のようにサンジがつぶやくと、ナミは少しムッとして、
「どんな花だって、心を込めて贈ってくれたら嬉しいものよ」
と言い返した。
サンジは苦笑したが、どこか清々しい気分だった。
女性はみんな赤いバラを送れば心を許してくれるものだと、いつの間にか思いこんでいた。
言われてみれば、店先に並ぶ花の中に赤いバラは見あたらなかったが、白や黄色やピンクの花はどれも色鮮やかで、モヌークの抜けるような青空にきれいなコントラストを作って揺れている。
そしてその花たちよりも一際目立つオレンジ色の髪。柔らかなラインの横顔に、サンジは釘付けになっていた。
その日デートの約束をしていた女性のことなどすっかり頭から消え去り、目の前にいる女性をもっと知りたいという思いがふくらんで、しばらくぼんやりとその場に立ち尽くしていた。
通りの向こうからは、そんなサンジの心を見抜いたかのようなバイオリンの甘い音色が流れてきた。
見ると、ガイコツのように細身でアフロヘアの紳士が子どもたちに囲まれている。
「シエスタの前にはいつもあの場所で演奏しているのよ」
ナミはそう言って、ひまわりのように笑った。
「あなた、船乗りさん?」
「え?」
「だって、ほら、ネクタイに……」
視線を落とすと、確かにそこにはシルバーのネクタイピンがあった。
「樽と星って、船乗りさんたちのシンボルでしょう?」
「へえ……詳しいんだね」
この一瞬のうちによく気づいたな、とサンジは舌を巻いた。
しかしナミはさっきの素っ気ない態度とはうって変わって、興味津々でサンジに話しかけてくる。
「ねえ、あなたは世界中の海を航海したの?」
目を輝かせているナミの表情はまだあどけない少女で、真っ直ぐな視線が痛いくらいだった。
「オレは西と南の海しか回ったことがないんだ」
「あなたは航海士?」
「いや、オレは……コックだよ」
「コックさんなの? すごい!」
海の話なんて、今まで会った女性は全くと言っていいほど興味を示さなかった。
しかしナミは次から次へと質問を浴びせ、食い入るようにサンジの話に耳を傾け、目を大きくしたり、拍手をして喜んだ。
変わってるな、と内心思いながらも、サンジは心が温かくなっていくのを感じていた。
気がつけば、立ち話のまま長い時間が過ぎ、シエスタがやてくると、ナミは少し恥ずかしそうに、
「迷惑じゃなければ、お茶飲んでいかない?」
と、サンジを店の奥へと誘った。
「……レディに待ちぼうけ喰らわすのは、オレとしては非常に不本意だけど……」
ナミにも聞こえない声でそっとつぶやいて、サンジは店の中へと入っていった。
デートの約束をした女性には、赤いバラを探し回っていたら間に合わなかったとでも言い訳をしよう、とぼんやりと思ったが、きっとその女性に会うことはもうないだろうという確信の方が強かった。
バイオリンの艶やかな音色はまだ続いていて、太陽の光は一段と強く差し込んでいた。
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