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「オレは、ナミさんが幸せならそれでいいんだ」

そう言って「彼」は目を閉じました。



それが「彼」の最後の言葉でした。







コンコン、と軽やかなノックの音が飛び込んだ。

「どうぞ」

かつ、かつ、と聞き慣れた靴の音が近づいてくる。

「教授」

振り返ってそう呼ぶと、「教授」と呼ばれるその人は、壁に掛かった一枚の絵をしばらくの間見つめていた。
そして、視線を私に落とすとすぐに、その向こう側に眠る「彼」に焦点を合わせた。

「……幸せそうな寝顔ですね」

「そう?」

「ええ、とても」

静かな寝息を規則正しく刻む「彼」の髪を撫でると、「彼」は少しくすぐったそうに首を振り、顔を少し傾けてまた静かに呼吸を続けた。

私は微笑む。



「……幸せ、かしら?」





幸せなのは、誰ですか?

 

 

 

ハピネス please, call my name

SANJI × NAMI

diary1 プロローグ 「乳房」 

 

 

 

「ベイビーはお目覚めですか?」

「あら、ぼっちゃん」

「だーかーらあ! そのぼっちゃんっての、いい加減やめてくれません?」

「そうやってすぐムキになるところがぼっちゃんだって言ってるのよ」

「なんすか、それ」

「ほら」

そう言って私はくすくすと笑った。

「今さら爽やか路線で売り出そうったって無理よ。私はあんたが若いときのやんちゃっぷりを知ってるんだから」

「ちぇ、相変わらずきっついなあ、ナミさんは」

「35過ぎた大の大人が、ちぇなんて言わないの」

「はーい」

少し口を尖らせたまま、「ぼっちゃん」と呼ばれるその男は大きく足を投げ出すようにして、一歩ずつ近づいてきた。
そして、やっぱり絵の前で一度立ち止まってしばらく眺めてから、私と「彼」に視線を投げかける。

「きれいな顔してるんですね、ベイビーは」

「そうよ。知らなかったでしょ?」

「ええ、まあ」

そこで言葉を一度飲み込んで、「ぼっちゃん」はしばらくの間「彼」の上下する胸の動きをじっと見守っていた。そして、ふう、と大きなため息をつくと、側にあった折り畳み椅子を広げて、私の隣に座った。
私の視界の隅にその影が現れて、視線が真っ直ぐに私の横顔に注がれていることに気づくのに、そう時間はかからなかった。

「なに?」

「いや……なんか」

「何よ」

言葉を選ぶのに戸惑っている「ぼっちゃん」をせかすように私は問いかける。

「オレ、何やってたんだろうなあって」

そこで初めて私は「彼」から「ぼっちゃん」へと顔を向けた。

「何ってなにを?」

私が目を合わせたことが意外だったらしく、「ぼっちゃん」はくすっと笑って言った。

「何であのとき気づかなかったんだろうって」

「だから、何がナニでなんなのよ?」

積み重なっていく「なに」に私は少しいらだちを含めて聞き返した。

「ナミさんを奪えるなんて一瞬でも思ったこと」

「何も知らなかったからでしょ。それだけよ」

私は素っ気なくそう答えて、再び「彼」に目を向けた。
口を少し開いて、嬉しそうな顔で眠っている私の「ベイビー」。
その唇にそっと指を当ててなぞり、そのままその指を私の唇に当てた。そうしたら、ほんのりとしたあたたかみが唇に広がった。

「……彼を愛してるんですね、とても」

「そうよ。あんたなんか足下にもおよばないんだから」

「ハハッ……でもそんなナミさんが好きだなあ、オレ」

「バーカ」

そう言ってくすくすと笑った。

「あんた、サンジ君のこと嫌いだったもんね」

「え、いや、まあ……ムカつくジジイだなあって、確かに思ってましたけど……」

しどろもどろになりながらも、「ぼっちゃん」は正直にそう言った。

「素直なお年寄りじゃあなかったわね」

「そうですよ! 口は悪いし、タバコは禁煙だって言ってるのにあっちこっちで吸うし、そのくせ注意するとあの老体でものすごい蹴りを入れてきましたからね。痛いのなんのって……」

「不良中年……不良、高齢者?」

「ああ、そうです。それそれ。まさにそれ」

そして二人で大きな声で笑うと、それまで静かだった部屋の隅々にまで笑い声がゆきわたった。

「でも、じいさんと孫みたいな年の差なのに、なぜかナミさんにはヘラヘラしてて、何だコイツって思いましたよ。なのにナミさんはすごく愛おしそうな目をしてるし、おかしな二人だなあって……」

「不気味だったでしょ?」

「……正直、そう思いました」

「素直でよろしい」

「それはどうも」

そこで「ぼっちゃん」は立ち上がって椅子を畳んで元の場所に戻した。

「もっとゆっくりしていったら?」

私が振り返ると、「ぼっちゃん」は少し困った顔で私を見下ろした。

「……ベイビーはオレがお気に召さないようなので、これで退散します」

そう言われて「彼」を見ると、口をきゅっと閉じて、睨むようにして「ぼっちゃん」を見上げていた。

「……覚えてんのかなあ、やっぱり」

私はそれには何も答えなかった。

「オレが担当になってよかったんですかね?」

少し遠慮がちに「ぼっちゃん」が聞いてきたので、私は振り返って笑った。

「いっぱいケンカしてあげてね」

それを聞いて「ぼっちゃん」は少し安心して、扉に手をかけた。

「早く結婚しなさいよ」

その後ろ姿に投げかける。

「ナミさん、してよ」

冗談混じりでそう言いながら「ぼっちゃん」は扉を開けた。

「いやよ。あんた、私より先に死んじゃうもの」

「はは……そうですね」

扉が閉まる直前に、小さなつぶやきが聞こえた。

「ベイビーしかいないわけだ」

パタン、という音とともに、再び部屋の中は静寂に包まれた。


「わう」

もぞもぞと、ベッドの起伏の大きさを変化させながら、「彼」は動き出した。

「おはよ。よく寝た?」

私の方に大きな手の平を向けて、何かを掴もうと閉じたり開いたりしている。その手をそっと両手で包み込んで、小さく音を立ててキスをした。

ベッドに腰掛けて、抱きかかえるようにしてその大きい体を起こしてあげると、そのまま両手を私の腰に巻きつけて、胸に頬擦りしてくる「ベイビー」。

「むー」

胸のくぼみに顔を置いて、訴えかけるような目で私を見上げている。

「なあに? おっぱい?」

ニッと笑ったその顔は、何度も何度も見てきた大好きな笑顔。思わずその額に口づける。

「ミルクなんて出ないわよ?」

そう言って服の中で下着を外し、裾をたくし上げて胸を出すと、「彼」は嬉しそうにそこに吸いついた。

ちゅうっ。ちゅっ、ちゅっ……

規則正しい音が静かな部屋の中に響いていた。金色のやわらかい髪に指を通して、何度も撫でてあげた。

「……何も出ないでしょ?」

ちゅっ、ちゅっ、ちゅっ……

それでも「彼」は目を閉じて私の胸に吸いついていた。幸せそうな顔。その頭を抱え込んで、頬をつける。

ちゅっ、ちゅっ……

「ふふ、くすぐったい」


私も目を閉じた。

「……幸せ?」

ちゅっ、ちゅっ……


あなたは幸せ?



「ごめんね」


何もしてあげられなくて、ごめんね。


「ごめんね……サンジ君」



目の前にいるのは、私の大好きな人です。

これからずっと、ずっと一緒です。


私の幸せのために、彼が選んでくれた道。



……ごめんなさい。


あなたが私に与えてくれたはずの「幸せ」

でも私はまだ、これが幸せだとは感じられないのです。



まだ……




                                                              zono 2003.11.1



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