夜もすっかり更け、モビーディック号は静かな眠りについていた。
見張りのクルーたちも凪いだ海に気がゆるみ、うとうとし始めた頃、船内を駆けめぐる足音。
ひたひたひたひた……
その音を聞いた者はどのくらいいただろうか。足音は随分と長い間響いていたが、誰も部屋から出てこなかった。
ただ一人をのぞいては。
BLUE CORAL
MARCO × ACE 2013.10.05
「だから本当なんだって!」
朝の食堂、口の中をいっぱいに食べ物を詰め、頬を膨らませながら、エースは力説していた。
「足音なんて誰も聞いてねえっつの。お前が寝ぼけていただけだろう」
向かい側の席でサッチが眉根を下げて笑っている。
「寝ぼけてなんかねえってば! 確かに廊下を走っていく音が聞こえたんだよ。そんで、船内を探してみたんだけど、さっきこっちで聞こえたと思った足音が、今度は全く別の場所から聞こえてきて、気が付いたらあちこちから聞こえてさ……」
エースの目は真剣そのもので、嘘をついているとはとても思えなかったが、それほどの足音なら他にも気付いた者がいてもおかしくはない。しかし、誰に聞いても首を横に振るだけで、エースが実際に体験したはずの出来事は、夢か作り話かで結論づけられそうになった、その時だった。
「オレは聞いたよい」
助け船を出すかのようにマルコが気だるそうに近づいてきた。手には濃いめのコーヒーを持っている。
「だ、だよな! マルコ! ほら、オレの言った通りじゃねえか! 本当に真夜中に廊下を行ったり来たりうるせえのなんのって……」
しゅんと肩を落としていたエースが急に居丈高な態度に変わると、マルコは大きなため息をついて荒っぽくその隣に座った。
「お前がドタバタ走り回っていたおかげで、オレはまんじりともできなかったよい」
「は?」
想定外の返しにエースはぽかんと口を開けた。
マルコの部屋は隊長室の並びでも一番端、ちょうど廊下の交差する角にある。船の構造上、空気の通り道にもなるせいか、やたらと船内の物音が響いて聞こえてくるのだった。
「えっ……でもさ、オレの足音が聞こえたんなら、子どもが裸足で走ってるような音も聞いただろう?」
エースが尋ねると、マルコは怪訝そうな顔をして首を傾げた。随分と肩が凝っているのか、ゴリッと骨の鳴る音がした。
「そもそも、うちの船にガキはいねェし、ステファンの足音ならわかる。オレにはお前のごついブーツの音以外は何も聞こえなかったよい」
そう言ってマルコは大きなあくびをしてからコーヒーを飲んだ。それ以上の戯れ言は受け付けないといった素っ気ない態度で。
「おっかしいなあ……」
さすがに、こうも証人がいないのでは、エースだって分が悪い。やはり、寝ぼけていただけなのかもしれない。
「まあまあ、とはいえここは新世界だ。何が起こってもおかしくはねえ。特に今は一番磁気のブレが激しい海域に入っているからな」
サッチがすべてをまとめるように得意気に話し始めた。
大海に点在する島々から出る磁気がちょうどぶつかり合う「ゼロ磁場」というスポットでは、特別なエネルギーが発生しているという。そのため、何の前触れもなく突然船が転覆したり、魚が一匹もいなかったり、異常気象に見舞われることもしばしばあると言われている。
「だから、お前が聞いた足音も例えば空気の流れがおかしくなって発生した自然音なのかもしれねえだろ? でなければ……」
意味深な間を置いて、サッチはニヤリと笑う。
「でなければ、何だよ?」
エースは疑い半分、期待半分で喉をごくりと鳴らした。
「幽霊じゃねえの?」
「……」
聞いたオレがバカだった、とエースはがっくりとうなだれ、恨めしそうにサッチを睨みつけた。
「おら、エースをからかうんじゃねェよい」
マルコも目を細めてサッチに冷たい視線を送る。しかし、すぐにエースを見て穏やかに笑った。
「まァ、でも……そういうものが聞こえるってことは、見込みがあるってことかもしれねェよい」
「……見込みって何が?」
その言葉にほんの少し心がときめく。見込みがあると言われれば、何かしらいいことのような気がする。
「いいか、エース。そもそも超自然的な物を見たり聞いたりできる人間にはいくつかの共通点がある」
「どんな共通点?」
ずいっと顔を近づけて、エースはマルコの次の言葉をじっと待った。マルコの口元は少し緩んでいる。
「……動物並みに研ぎ澄まされた感覚と、何でも信じて疑わない子どものようにバカ正直な心を持っていることだよい」
そう言いながら、マルコの声は最後ほとんど震えていた。
「わははは! 確かにエースの頭ん中は動物やガキみてえに単純だ!」
目の前でサッチが腹を抱えて笑うと、エースはむっとして立ち上がった。
「何だよ! 二人して人のことバカにしやがって!」
ずかずかとブーツの音を響かせて、エースは食堂の出口へ向かう。
「マルコとサッチとはもう口利かねえからな! あと、マルコには何もやらねえ!」
エースはそう言い残して扉を荒々しく閉めた。
食堂は一瞬静まり返り、そして何事も無かったようにざわめきが戻っていった。
「おいおい、寝不足で機嫌が悪いからってエースに意地悪すんじゃねえよ」
サッチがマルコを見てニヤリと笑う。大人気がないのと子どもっぽいのでは、どちらが上でも下でもないとサッチは思っている。とりわけこの二人の関係においては。
「ちょっとからかい過ぎたよい」
マルコはクックッと肩を揺らして笑っていた。あんな子犬のように真っ直ぐな目で見つめられたら、つい意地悪してやりたくなるのは、自分が悪い大人だからなのかもしれない。
「しかし、やらねえって何を?」
エースの言葉尻を掴まえてサッチが尋ねると、マルコは真横に首を傾げた。
「……さて?」
* * *
あてもなく船内を歩きながら、エースはぶつぶつと文句を言い続けていた。
「何だよ……人がせっかく……!」
ポケットの中をごそごそと探り、そっと取り出したのは、青い珊瑚。青と言っても濃紺に近い色をしている。
間もなく訪れるマルコの誕生日に渡そうと、先だって立ち寄った島でこっそり買ってきたものだった。
珊瑚は海難防止のお守りとして、古くから船乗りたちが身に付けているのだと聞いた。海賊を20年以上続けている男に今さら海難防止もないだろうが、なんとなく気になって入手した。青い珊瑚は薄く、片側は丸くカーブを描き、反対側はすっと閉じるように細くなっていて、まるで鳥の羽根のようにも見えた。
その時には誰よりも先に、誰よりも近い場所で祝ってやりたいと思うのに、ついカッとなってマルコを遠ざけてしまった。ここから距離を戻すには、自分が折れるしかないこともわかっている。
「だって信じてくれねえから……」
昨晩聞いたあの足音は幻聴ではないのに。しかし、それを証明する手段も何もない。
それなら、とエースは心を決めた。
「……今夜は絶対に掴まえてやる」
その夜はひどい時化だった。甲板では駆り出された5番隊が、帆が風に煽られないようにロープをしっかりと引いて守っていた。当然モビーも右へ左へと振り子のように揺れている。
昨日とはうって変わって騒々しい中、エースだけはじっと耳を澄ませていた。
ひたひたひた……
「……来たっ!」
16番隊隊長のイゾウの部屋から1番隊隊長のマルコの部屋に向かって近づいてくる足音。昨日と同じ、小さな子どもが裸足で走っているような軽い音を立てている。
息をひそめ、足音がちょうど2番隊隊長室の前を通る時、エースは思い切って扉を開けた。
「誰だ!?」
しかし、廊下には誰の姿もなかった。
ひたひたひた……
次の瞬間、角を曲がってさらに奥へと遠ざかっていく足音が聞こえてきた。
エースは部屋を飛び出し、真っ暗な廊下を進んでいく。指先にほんの少しだけ炎を灯すと、長い廊下には自分の影だけが映った。それでも、足音はエースをいざなうように奥へ奥へと進み続ける。
ふと、足音が消え立ち止まると、そこには扉があった。
「この部屋なんだっけな……?」
いくら自分の暮らす船とはいえ、まだ入ったことのない部屋だってある。とりわけ、自分に関係のない部屋となると、一度説明を受けたものでもすっかり記憶の中から消されてしまっている。
そっと扉に手をかけるも、ふとサッチの言葉を思い出してしまった。
−−幽霊じゃねえの?
一瞬だけ躊躇したが、思い切って開けてみると、中はただの倉庫だった。
指先の炎を大きくして中を見渡しても、特にどうということのない、普通の倉庫のようだ。
ふう、と大きく息をつき、部屋を出ようとしたその時−−
カサカサ、カサカサ……
「誰かいるのか?」
紙が擦れ合うような音が聞こえ、エースが手の中の炎を強く燃やすと、狭い部屋はすぐに明るく照らし出された。
「おい、誰かいるなら返事をしろ! おとなしく出てくれば攻撃はしねえ」
すると、積み上がった木箱の影から、小さな影が現れた。
「ちっ……バレちまったよい」
出てきたのは、エースの腰ほどの高さしか身長のない、小さな子どもだった。縦縞のシャツをはおり、すり切れたズボンから見えるのは汚れた足。そして、坊主頭に鳥の巣を載せたような、不思議な髪型をしている。
「お前、いつから……どうやってこの船に乗ったんだ?」
子どもは眠そうな目をあさっての方向に向け、素知らぬ顔をしている。子どもなのに、どこか憎らしい。
「この船が停泊していた港で、こっそり忍び込んだんだよい……ちょうどオレが行きたい島へ向かうって聞いたから」
その島の名前を聞くと、およそモビーの針路とは大きくかけ離れていた。それにしても、エースはこの子どもが気になって仕方がない。
「どうやらお前はどこかの商船とこの船を間違えたみてえだな。この船は海賊船だ」
膝を曲げ、視線を近づけてそう言うと、子どもはきょとんとしてエースを見上げた。
「ってことは、おっさん海賊なのかよい?」
「おっさん? つかオレまだ19だし」
「19歳は立派なおっさんだろい」
「はあ? これでもオレはこの船じゃ一番若いんだぞ?」
「じゃあ下っ端」
「うるせえっ!」
思わずゴツンと子どもの頭を殴ってしまった。子どもは頭を抑えてうずくまり、しばらくの間痛みにうち震えていた。
「オレはこの船の2番隊隊長だ! 生意気な口利くんじゃねえ、このクソガキ!」
それでも子どもは顔を上げない。見ると、殴った部分が赤く腫れ上がって来た。力加減を間違えてしまったらしい。
エースは慌てて水場へ走り、濡れた布を持って戻ってきた。
「悪かったな、本気で殴っちまった」
そう言って布を当ててやると、子どもは涙目でキッとエースを睨みつけた。どこか違和感を感じたが、その正体が何なのかエースにはまだわからなかった。
「とりあえず、乗っちまったもんは仕方がねえ。次の島まで連れてってやるよ」
ふん、とそっぽを向いたきり、子どもは黙り込んでしまった。
「わ、悪かったよ。なあ、オレのことおっさんでも下っ端でもいいからさ、機嫌直してくれよ、な?」
「……じゃあ下っ端のおっさん」
それはあんまりなんじゃないか、と内心思ったが、エースは殴った詫びとしてその呼び方を受け入れることにした。
「腹減ってねえか? 夕食の残りでよけりゃ持ってきてやるよ」
それに呼応するように、子どもの腹がぐう、と鳴った。
「なあ、下っ端のおっさん……オレがここにいるってこと、仲間に話すのかよい?」
少し怯えたような視線は、エースの良心をちくりと痛める。別に、話したところでこんな小さな子どもを追い出せと言うほど白ひげ海賊団の仲間たちは狭量ではない。しかし、どこか不思議な雰囲気を持つこの子どものことは、秘密にしておいた方がいいのかもしれない、とエースはぼんやりと思った。
「じゃあ言わねえよ。だからお前も夜な夜な船の中を走り回ったりするんじゃねえぞ?」
「うん」
子どもは素直にうなずいて、にぱっと笑う。それを見て何故かエースの胸はきゅんと締めつけられた。
ずっと感じているこの違和感は何だろう?
「メシ持ってきてやるからちょっと待ってろよ」
そう言って扉に手をかけたとき、ふと振り返って尋ねてみた。
「お前、名前は?」
すると子どもは何の迷いもなく自分の名前を名乗った。
「マルコだよい」
* * *
大荒れの海をやり過ごし、ようやく船が安定したので、甲板に駆り出されていたクルーは見張り番を除いてみな部屋に戻ってきていた。
自室に入ったマルコは煙草をくわえながら、海図を広げてこの先の針路について思案しているところだった。
「……もうすぐゼロ磁場にぶつかるな……何とか回避して進む方法はねェもんだろうか」
すると、思考の邪魔をするかのように、廊下の奥からドタバタと騒々しい足音が近づいてきた。
「マルコッ!!」
想像に難くなかったが、飛び込んできたのはエースだった。
「マルコ、マルコが……倉庫にちっせえマルコが……あれはマルコの何なんだ?」
完全にパニックに陥っているようで、全くもって何を言っているのかわからない。
「一体何の話をしているんだよい?」
「だからマルコが……!」
「オレがどうした?」
次に続く言葉を考えながら、エースは気持ちを落ち着けようと大きく息を吸った。そこではたと我に返り、口を閉じるのも忘れて凍り付いてしまった。
「あ、いや、何でもねえ……」
そう言ってエースは逃げるように部屋を飛び出して行った……かと思ったら、また戻ってきて、扉から顔だけを覗かせてマルコに尋ねる。
「あ、あのさ……次の島に着くまで何日くらいかかるかな?」
口を利かないと言ったのはもう時効になったのだろうか、と訝しげに思いつつも、自分も話すきっかけを探っていたものだから、マルコは少しだけ優しい声色で答えてやった。
「あと3日ってところだねい……何事もなければだが」
「そっか、わかった! サンキュー!」
そして扉はあまりにもあっけなく閉じられた……かと思ったら遠ざかった足音が再び近づき、エースは顔だけをマルコの部屋に突っ込んで尋ねる。
「えと、マルコってまさか隠し子とか……いたりしねえよな?」
「はァ?」
「やっぱ今のなし! 何でもねえよ、じゃあな!」
そして今度こそエースはマルコの部屋から遠ざかっていった。
マルコは少しだけ目を見開いて、エースが去った後の扉を眺めていた。
「やっべえ……誰にも言わねえって約束したんだった」
食堂からこっそり取ってきたパンと果物を持って、エースは暗い廊下を歩いていた。
「しかし、あのちっせえマルコは何者なんだろう? どう見てもマルコのミニチュアみてえだけど」
頭の天辺から房のように生えた髪型といい、眠そうに半分閉じた目といい、マルコにそっくりだった。極めつけはあの語尾に「よい」をつける話し方だ。あの子どもに出会ってから感じていた違和感はそこだった。
少なくともさっきのマルコの反応から見るに、隠し子ではないようだ。エースは内心ホッとしつつも、あの小さいマルコの正体が気になって仕方がない。
もしかしたら、マルコの生まれた島の人間は、あんな風に不思議な髪型で、不思議な訛りを持つ民族なのかもしれない。そうだとしたら、あの子どものことはマルコに話した方がいいような気もして、エースは迷い始めていた。
「……次の島についたら話すか。もともと行きたかった島と違うみてえだし、そこで放り出されても途方に暮れるかもしれねえしな」
そうつぶやいて、エースは倉庫の扉を開けた。
小さいマルコは、年齢が9歳という割には随分と利発な子どもだった。
海図が読めるらしく、倉庫の奥にあった海図や航海日誌を引っ張り出して楽しそうに眺めている。
「お前、それ見てわかるのか?」
そう尋ねると、マルコは「下っ端のおっさんは海図わからねェのかよい?」と少し得意そうな顔をする。
「お、オレは戦闘員だから、別にいいんだよ!」
大人のマルコは自分よりもずっと年上だから、知らないことがあれば素直に聞けるのに、年下の小さいマルコに自分の無知を知られることはひどくばつが悪い。
「どうやって勉強したんだ?」
「本屋から一冊ずつ拝借して、読み終わったら次の本を借りて、店にある航海術の本はだいたい読んだよい」
「本屋って……お前、本を盗んでたのか?」
「違うよい。ちゃんと返してたから、盗んだことにはならねェだろい?」
さも当然のように胸を張り、マルコは言った。その自信満々の表情にエースは思わず吹き出して笑う。
「ははは……屁理屈だけは一人前だなあ。だけどお前、航海士にでもなりてえのか?」
「そう言うわけじゃねェよい。でも、海に出るには知っておいて損はねェだろい?」
子どものくせに打算的なこと言うもんだ、とエースは次に苦笑した。
「せっかくなら海賊になれよ」
エースがニカッと歯を見せると、マルコは素っ気なく目を反らした。
「海賊は海の嫌われ者だろい?」
何か海賊に嫌な思い出でもあるのだろうか。じっと海図を見つめる視線はどこか悲しそうにも見えた。
「まあ、そうだけどな。でも、オレは海賊になってよかったと思ってる」
そしてエースは、海に出てからこのモビーディック号にたどり着くまでの武勇伝をマルコに話してやった。もちろん、若干の脚色は入れつつ。最初は興味なさそうに聞いていたマルコもやがてエースの話に引き込まれ、最後は目を輝かせて聞き入っていた。
「……だから今のオレには1600人を越える家族がいて、大切なものがたくさんある。毎日が楽しくて仕方がねえんだ」
いつしかエースも話に熱が入り、時間を忘れてしまっていた。気が付けば辺りは薄明るくなり、マルコは眠そうな目が今にも閉じそうなところを必死でこらえているようだった。
「わりい、つい話し過ぎちまった。また夜になったらメシ持ってきてやるから、しばらく寝てろよ」
「うん」
素直にうなずいて、マルコは床に転がった。その様子を見て、後で部屋からシーツを持ってきてやろうとエースは思った。
小さくうずくまって眠っているマルコは、何がきっかけで海に出たいと思ったのだろう。一人で商船に乗り込んで−−結局それはこの海賊船だったのだが−−目的の島で何をしようと思っているのか。
膝をつき、静かに寝息を立てるマルコの髪をそっと撫でてやると、子どもらしい穏やかな笑顔を見せた。エースの胸が再びきゅんとする。
「……?」
エースはその感覚に違和感を覚える。
この子どもをかわいらしいと思う以上に愛おしいと思ってしまう。そしてそれは、大人のマルコに対して抱く感情とひどく似通っているような気がするのだ。
「……まさかな」
もしかしてこれが、マルコの言っていた「超自然的な何か」なのではないだろうか。
* * *
「下っ端のおっさん、どこへ行くんだよい?」
次の晩は月の無い夜だった。エースは小さいマルコを連れて、甲板に出た。
「おもしろいもん見せてやるよ」
そう言ってマルコをひょいと担ぎ上げると、エースは軽やかに甲板から飛び降り、係留してあったストライカーの上に降り立った。
「しっかりつかまってろよ」
足にがっちりと絡みつく細い腕の力は弱々しく、ほんの少しの加速で海に落としてしまいそうで心もとない。
「お前、海図の勉強もいいけど、もっと体を鍛えろよな」
鳥の巣のような黄色い髪をぽんぽんと叩くと、エースは能力を発動させ、一気にストライカーを加速した。
「ひゃっ!」
一瞬離れそうになったマルコは、振り落とされないように必死でエースの足にしがみついている。
「目え閉じるんじゃねえぞ? 今日は波も静かだ。こんな日にはよく現れるんだ」
「現れるって何がだよい?」
マルコがそう尋ねると、ストライカーの少し先で海面がパシャリとしぶきを上げた。
「ほら来た」
波間から顔を出したのは、イルカの群れ。モビーのような巨大な船には近寄らないが、ストライカーほどの小さな船は仲間だと思うのか、イルカたちは船体に併走するようにどこまでもついてくる。
エースが蛍火を放つと、イルカはさらに大きな群れとなり、光と戯れるように弧を描いて跳ね上がる。
「うわあ……!」
マルコは言葉を失い、口をぽかんと開け、頬を紅潮させてその幻想的な光景に見入っていた。
「な、すげえだろ?」
得意気に胸を張るも、内心は少し後ろめたさがあった。
この密かな夜の楽しみを教えてくれたのは、何を隠そう大人の方のマルコだったから。
どういうきっかけで誘われたのか、今となっては記憶が曖昧だが、今日のように月の無い夜だったのを覚えている。
青く輝く羽根を伸ばした不死鳥の背中につかまり、モビーから遠く離れた場所まで連れてこられ、海面すれすれの場所を滑空しているうちに、波間からイルカたちが現れた。
水面に映る青い光の中を泳ぐイルカたちの姿と、はじける水しぶきがあまりにもきれいで、言葉を失った。思えばそれで心を持って行かれたのだと思う。いや、持って行かれたというよりは、あやふやだった気持ちの行き先がはっきりわかったと言った方が近いかもしれない。
マルコはあの時、自分のことを口説く気満々で海に連れ出したのだと思うと、憎らしいというか大人の考えることはずるいというか。それであっという間にほだされて今の関係になったわけだが。
そして今、小さなマルコを連れ出して同じ事をしているのが、ちょっとした裏切りのような気もして、でもどこか清々しい気持ちになる。
「下っ端のおっさんはすげェよい」
エースの足元からマルコが顔を上げてにぱっと笑った。
「だろ? 今度はオレが闘っている姿も見せてやるよ」
「うん」
鳥の巣頭をわしわしと撫でてやり、エースはニカッと歯を見せて笑う。
この小さいマルコと、大人のマルコはきっと同一人物なのだろう。根拠は何もないし、現実ではあり得ないことだが、エースはそう信じたくなった。
出会った時のマルコは、すでに酸いも甘いも知り尽くした大人の男だった。完成された大人としてそこにいた。冷静で知識も豊富で信頼もあって、エースには何一つ敵うところなんてないのだ。だからなのか、この子どものマルコが子どもらしくあればあるほど、嬉しくなってしまう。誰にだって子どもの時間というのは確かにあって、昨日今日で突然大人になったりはしない。
「そういう話って聞いたことねえよなあ……」
ストライカーをモビーへと近づけながら、エースはつぶやいた。一番近くにいて、心を開いてもらっていても、それはエースがマルコのことを誰よりも知っているということにはならない。もしかしたら、白ひげ海賊団の中では、自分が一番マルコのことを知らないのかもしれない。
「おっさん?」
くい、くい、とハーフパンツの裾を引っ張られ、エースはハッと我に返る。
「はは、下っ端扱いはやめてくれたのか?」
自虐的に笑うと、マルコもにぱっと笑い返す。子どもらしい愛嬌のある笑顔。
「おっさんはすげェ海賊に違いねェから、下っ端じゃねェよい」
「そうか、じゃあおっさんってのもやめてくんねえか? オレの名前はエースだ」
便乗してそう頼むと、マルコはきょとんとしてエースを見上げた。
「だっておっさんはおっさんだろい」
エースは口元だけで笑って、膝をつき、マルコと視線を合わせて鳥の巣頭を撫でてやる。
「19歳なんて、まだまだガキだよ……海に出たら右も左もわからねえし、何でも知ってると思っているつもりが、実は何もわかっちゃいねえ。お前もオレくらいの年になったらわかるよ」
「ふーん?」
いや、この子どもにおいては、19歳で確実に今の自分よりは精神的に成熟しているに違いない。
「よし、朝が来る前に倉庫に戻るぞ。あと1日で島につくから、そこで別の船を探して、お前がちゃんと目的の島へ行けるように取りはからってやるよ」
それができるのはオレではないけど、とエースは心の中で付け足した。マルコはエースに向かってもう一度にぱっと笑うと、軽やかな足取りで甲板を走っていく。
ひたひたひた……
「おい、あんまり足音立てんなよ。みんなに見つかるぞ」
小さな背中に呼びかけると、マルコはくるりと振り返って口元をくいと上げて笑った。
「そんなヘマはしねェよい」
その顔は、やはり子どもながらにしてマルコそのものだった。あの自信に満ちた憎らしい……。
それでいて、とても愛おしい。
胸がきゅんと鳴るのは、子どものマルコに対ししてではなく、彼を通して大人のマルコを重ねて見ているからなのだと、エースは今ここではっきりと気付いた。
「はは……そうでなけりゃただの生意気なガキにしか見えねえもんな」
遠ざかるマルコの背中を見つめていると、甲板から船室へ戻る扉の前で何の前触れもなくふっと消えた。
「マルコ!?」
思わず呼びかけると、その直後、船室の中を駆けていく足音が聞こえた。
ひたひたひた……
エースは一度だけ身震いをして、そのまま甲板に仰向けに倒れ、空を見上げた。
月のない空には星が砂のように散りばめられている。
「こんな時間に何やってんだよい?」
空を背景にぬっと顔を出したのは、大人のマルコだった。足音も聞こえなければ、気配もなく、突然その場に現れたような気がした。
「……本物?」
「あァ? 何寝ぼけてやがる。オレはずっとここにいたよい。そうしたら突然お前がここに転がっていて……」
ふう、とため息をひとつついて、マルコはエースの視界から消えた。
「こんな時間に何してたんだ?」
起き上がって尋ねると、マルコは眉をひそめてエースを見つめた。それはこっちの台詞だと言いたげな、そんな表情で。
「波の様子を見ていただけだよい」
「ふーん?」
航海士に任せておけばいいのに、と思いながらも、真夜中の甲板で予期せずマルコに出会えたことにエースの心は躍っていた。ちょうど会いたいと思っていたところだったから。
立ち上がり、子犬が飼い主に飛びつくようにエースはマルコの胸に突進した。ぎゅうっと抱きつくと、普段は暑苦しいと言って嫌がるマルコもすんなりと抱き返してくれる。夜風がほどよく涼しいせいなのかもしれない。
「口利かねェんじゃなかったのかよい?」
少し意地悪くマルコが言うと、エースはそんなことを言ったことすら、もうすっかり忘れてしまっていた。ただ、ほんの少しだけ自分が優位な立場にいるような気がしたので、「もう許してやる」と言うと、マルコは「そりゃどうも」と笑いながらエースの背中を撫でてくれた。
「……潮くせェな」
エースの髪に顔をうずめたマルコがくぐもった声でつぶやいた。
「あ、さっきストライカーで……」
「知ってるよい」
説明はいらないとマルコはエースの言葉を遮った。
「ストライカーの船尾が暗い海面を行ったり来たりしているのが遠目でもよく見えたよい」
暗闇を縦横無尽に駆けめぐる光の残像。こんな夜中に一体何をしているのかと、マルコは船の上からずっと眺めていた。
「ひとりで」海に出て、万が一落ちたら誰も助けてくれないのに危なっかしいヤツだ、とヒヤヒヤしながら。
「なあ、それって……」
顔を見合わせて、エースはニヤリと笑ってみせた。
「ずっとオレのこと見てたのか?」
するとマルコはふいと視線を逸らして素っ気ない態度に変わる。
「だから言っただろい。海の様子を見ていたら、たまたまお前が……」
その言葉を聞き終わらないうちに、エースはマルコの唇にちゅっと吸い付いて、そして力一杯抱きついた。
「マルコ……オレ、マルコが好きだ。すっげえ好きだ。好きで好きでたまんねえんだ」
「そりゃ……熱烈な告白ありがとうよい」
クックッと肩を揺らしながら笑う振動が、触れ合っている部分から伝わってくる。
「でも、オレはマルコのこと何も知らねえ……だからもっともっとマルコのこと知りてえんだ」
「聞きたけりゃ、どれだけでも話してやるよい。どうせお前は途中で寝てしまうだろうけどなァ」
ははは、と声を出してマルコが笑うと、エースはムッとして口を尖らせる。
「ぜってー眠らねえ! 約束する!」
「わかったよい……だが、それは島についてからだ。明日は大変な日になりそうだからよい」
海からの涼しい風が、ふわりと生温かい湿気を含んだそれに変わった。マルコは空を見上げて、「来たか」とつぶやいた。
「明日の夜、日付の変わる頃にこの船がゼロ磁場に突っ込む。何が起こるかわからねェから、オレたちは全力でモビーを守らなきゃならねェんだよい」
「そっか……」
少し残念そうに眉根を下げたのがわかったのか、マルコは困ったような顔をしてエースに額をくっつけてきた。
「ゼロ磁場さえ突破すれば、後はずっとお前の傍にいてやるから。そうしたらたっぷり祝ってくれるんだろい?」
そう言われて、マルコの誕生日が2日後に迫っていることを思い出した。
「なあ、マルコくらいの年になっても、誕生日ってやっぱり嬉しいもんなのか?」
「嬉しいとはちょっと違うかもしれねェよい……なんつうか、感慨深い?」
「かんがいぶかい?」
その言葉をエースが理解していないのを確認すると、マルコは別の言葉を探して丁寧に説明した。
「この一年、オヤジが元気でいてくれて、仲間たちも誰一人欠けることなく息災でいられたことに感謝するとでも言うのかねい……明日どうなるかわからねェ海賊だからこそ、そう思うのかもしれねェが」
「んー、よくわかんねえけど、要は誕生日は悪くねえってことだよな?」
エースが単純に結論を出すと、マルコは「わかってねェな」と苦笑した。
「お前もオレくらいの年になればわかるだろうよい」
「そん時はオレはおっさんで、マルコはじいさんだな!」
へへっ、と意地悪く笑って見せる。マルコは目を細めて静かに笑っていた。
「オヤジから見てオレがいつまで経ってもハナッタレなのと同じで、お前が今のオレの年になっても、きっとオレから見りゃガキのままだと思うよい」
「じゃあオレはいつになったら大人になれるんだ?」
小さいマルコにおっさんと言われるのも心外だけど、大人のマルコにいつまでもガキ扱いされるのもおもしろくない。
「お前はずっとそのままでいいんだよい」
重ねていく時間はみんな同じなのだから、と言われてエースはますます意味がわからなくなった。するとまた「オレくらいの年になればわかるよい」と言われ、話は振り出しに戻る。
考える間もなく唇を塞がれると、わからないことにあれこれ思考を巡らせる時間がもったいないと思えた。何もしなくても時間は流れるのだから、それなら今この時間を大切にしなければ。
海からの風はどんどん湿気を帯び、体にまとわりつくように流れてくる。背中が汗ばむのはこの風のせいか、それとも長い長いキスで体の芯から熱くなっているせいか。それすらもわからなくなるほど長い時間、マルコとエースは甲板で抱き合い、唇を重ねていた。
* * *
次の日の午後から、船は大きく揺れ始めた。
最初は船体を風に煽られていたが、やがて波のうねりに翻弄されるように前後左右に傾き出した。
モビーディック号のクルーたちは交代で甲板に出て、航海士の指示に従って船の進行方向を必死で維持している。
「それにしても、なんだってゼロ磁場のど真ん中へ突っ込むことにしたんだ?」
4番隊の指揮を執っているサッチがマルコに尋ねると、マルコは海図を広げながら冷静に答えた。
「ゼロ磁場の周辺は海流の動きが読めねェからな、下手に避けて通っても結局はアリジゴクみてェにゼロ磁場の中心へ引っ張られる。それなら磁力の一番弱い場所を探して直進するのが一番安全だという判断だよい」
「なんだあ? 要するに台風の目が晴れてるのと同じ理屈か?」
「まァ、そんなもんだよい」
細かい説明をするのが面倒で、マルコはそこで話を終わらせた。
陽が沈むと気温が下がり、空には急速に雨雲が発達していった。雲の中で何度も点滅する稲光がクルーたちの不安を煽る。
「マルコ?」
暗くなった倉庫にエースが入り、炎を灯すと、部屋の隅では小さいマルコがうずくまって震えていた。船があまりにも揺れたせいで、木箱や海図が辺りに散乱している。
「大丈夫か?」
近づこうとして、エースは一瞬足を止めた。マルコの体が透けて、後ろの壁が見えるのだ。
慌てて手を伸ばすと、まだ手で触れられるだけの実体はあった。しかし、ゼロ磁場を過ぎた時にこの子どもは消えてしまうのだろう、とエースは確信した。
「雷の音がすげェよい……この船、大丈夫なのかよい?」
エースにぎゅっと抱きついて、マルコは涙目で尋ねてきた。
「大丈夫だ、心配するな。今オレの仲間たちが必死で船を守っている」
「船が落ち着くまで、ここにいてくれよい」
怖がるのも無理はない。一緒にいてやりたい気持ちはあったが、エースの率いる2番隊もこの後甲板に応援に出なければならない。
「ゼロ磁場ってわかるだろう? この船は今からゼロ磁場を突破するんだ」
「ゼロ磁場を!? そんなの無理だろい? だってゼロ磁場ってのは……」
必死で何かを訴えかけようとしているマルコの額を、エースは指先で小突いてやった。
「本で読んだ知識はいらねえんだよ」
思ったよりも強かったのか、マルコはしばらくの間、額を押さえて痛みに耐えているようだった。
「いいか、マルコ? 知識だけあってもダメなんだ。新世界の海では常識では考えられないことがたくさん起こる。それをいちいち本で読んだのと違うなんて言ってらんねえだろう?」
「でも、どうするんだよい……?」
「まあ、それは」
不安そうに見上げるマルコに、エースはニカッと笑って答えた。
「何とかなるって思ってりゃ、何とかなるもんだ!」
「は……」
一瞬だけ絶望的な表情を見せた後、マルコはけたけたと笑い出した。その体は少しずつ薄くなっている。
「オレは、おっさんみてェな大人にだけはなりたくねェよい」
「ああ、ならねえ方がいいと思う。でも、いったん海に出たらそういう考え方もあるってことは覚えておいてくれ……お前もオレくらいの年になったらわかるさ」
どこかで聞いた台詞をそのまま言うと、それを聞いたマルコは子どもらしくにぱっと笑った。
「ほら」
ポケットから取り出して、小さな手にそっと忍ばせたのは、羽根のような形をした青珊瑚。
「これは海難防止のお守りだ。お前、明日が誕生日だろう?」
「え、何で……?」
眠そうな目を大きく見開いて、マルコはエースの顔を見つめ返した。
「そりゃあ知ってるさ……理由は教えねえけどな!」
わしゃわしゃと鳥の巣頭を撫でてやると、マルコは少しだけ目を潤ませた。
「ちょっと早いけど、10歳おめでとう、マルコ」
青珊瑚を両手でしっかりと握りしめ、マルコは必死で涙をこらえている。消えそうな体の真ん中で、はっきりとした実体を持った青珊瑚だけがやけに浮き上がって見えた。
「お前の未来は希望でいっぱいだなあ……オレも、ずっと応援してるからな」
そう言ってエースは立ち上がった。名残はあったが、今はモビーの安全が最優先だ。
「エースのおっさん」
そう呼び止められて、エースは苦笑する。振り返ると、今にも消えそうなマルコの姿。
「おっさんみてェな大人にはなりたくねェけど、海賊になるのは悪くねェかもしれねェって思ったよい」
生意気そうに笑って、マルコは青珊瑚を握りしめていた。
「ああ、お前ならすげえ海賊になれるさ。オレが保証する」
だって、オレはお前の未来の姿を知っているから−−
その言葉は心の中だけにしまっておいて、エースは倉庫の扉を閉めた。
甲板に出ると、激しい雨が降っていた。
まばゆいばかりの稲光が海と空を繋ぐ柱のようにあちこちに現れる。それに連鎖して響き渡る雷の音は、この世の終わりを告げるかのようにも思えた。
「エース! お前は出てくるな!」
甲板からサッチが叫んだが、その時にはすでにエースは雨に濡れ、髪から雫がこぼれ落ちていた。
「あれ……? 何かすげえだりい……」
急に手足の力が抜けていくような感覚に陥った。大きく揺れた船の動きに体がついていけず、甲板から足が離れた。
「うわっ!!」
危うく海へ放り出されるところを、間一髪のところでサッチが引き留めた。
「これは雨じゃねえ! 海の水が風に巻き上げられて降っているんだ。だから能力者が出てきても何の役にも立たねえ」
甲板の先では、航海士と隊長たちが集まり、声を張り上げて指示を出している。その中に、マルコの姿が見えた。
「でも、マルコが……!」
「あいつなら心配はいらねえ。命綱つけてっからよ! ヨロヨロになって指示出してらあ」
そう言ってウインクをしたサッチに、エースは「じゃあオレも」と不敵な笑いを浮かべた。
腰に括った命綱は、メインマストにしっかりと繋がっている。
「2番隊、ロープは弛ませるんじゃねえぞ! 帆が風に持って行かれたら船がひっくり返るぞ!」
精一杯の大声で、エースは2番隊をまとめる。当の自分は風にあおられて何度も転んだり、柱にぶつかったりして、全く2番隊隊長の威厳はないようにも見えたが。
「エース隊長、無理しないで中へ入っててくださいよ」
「バカ言うな! こんな一大事にじっとしていられるかってんだ。オレたちは運命共同体なんだよ」
正直、ごろごろ転がっているだけなら中に入っていてくれた方が邪魔にならないのに、と2番隊の隊員たちは思ったのだが、こういう真っ直ぐ過ぎるところが2番隊隊長のいいところでもあり、何より隊員たちの士気を高揚させる不思議な力があることは間違いない。
やがて、船は壁のように迫り来る波を抜け、ゼロ磁場のど真ん中へと入って行った。
あれほど高かった波がぴたりと収まり、不気味なほどの静寂に包まれた。
「急いでここを抜けるぞ! 帆を張れ!」
その指示で、モビーディック号は総帆を開き、その雄大な美しい姿を見せた。微弱な風を捉え、ゆるやかな速度でゼロ磁場を抜けようとしたその時、分厚い雲が急速に渦を巻き始め、放電するように稲光が漏れ出した。
「やべえ……」
空を見上げたエースは青ざめた。まるで昼間のように明るくなった空から、船一つを飲み込むほどの大きさをした光の柱が落ちてくるのが見えた。いくらモビーとはいえ、この大きさの雷を受けたらひとたまりもない。
「前進! 前進するんだッ!!」
隊長たちが全員、声を枯らすほどに叫んだ次の瞬間、メインマストの上で何かがはじけるような音がして、光の柱は四方八方へと分散された。まるで花火のように綺麗な残像を描き、稲妻は周囲の海へと落ちていった。
「飛ばされるなよい!!」
マルコがそう叫ぶと、突風がモビーに襲いかかる。前から来たと思ったものが次は後ろから来て、右から来たと思ったら次は左からやって来る。風に体を持って行かれたエースは、何度も押し寄せる突風に弄ばれ、まるでふわふわと宙を浮いているようだった。命綱がなかったら、あっけなく海へ放り出されていたことだろう。
モビーディック号は最後に吹いた突風を帆に受けて、全速力でゼロ磁場を抜け出した。大荒れの海をやっとのことで抜け出した時、遠い水平線はうっすらと明るくなり、朝の到来を告げていた。
甲板では、力尽きたクルーたちが所狭しと倒れている。その間を縫って、エースはマルコの元へと急いだ。
「マルコ、お疲れ」
「……あァ、お前もよく耐えたな、エース」
マストにもたれてぐったりとしているマルコの顔色はひどく悪く、目の下には隈ができていた。ぎゅっと抱きつくと、弱々しく抱き返してくれる。
「でっけえ雷が落ちてきた時、オレ本気で死ぬかと思った」
「あァ、オレも生きた心地がしなかったよい」
そう言ってマルコは安堵のため息をつく。
「でも、マルコはわかっていたんだろ? この針路なら大丈夫だって」
尊敬のまなざしで尋ねると、マルコは気だるそうに笑いながら「まさか」と答えた。
「迂回しようと言う航海士の反対を押し切って、この針路に決めたのはオレだよい」
「マジで!? なんだってあんな危険な航路にしたんだよ?」
「……理屈で行けば、磁気の少ない場所を直進するのが一番いいと思ったからだよい」
「は……」
相変わらずだな、と言いかけて、エースはハッと口をつぐんだ。
「知識だけあってもダメなんだよ。何が起こるかわからねえのが新世界だろうが」
強い口調でそう言うと、マルコはクックッと肩を揺らして笑っていた。
「いつだったか、誰かにもそんな説教されたことがあったよい」
思わず、エースの心臓が跳ね上がる。
「……誰に?」
「いや、昔のことだからもう忘れちまったが、もうひとつ、その人物に言われた言葉をオレは信じてみたんだよい」
マルコはエースの髪をくしゃりと撫でると、厚ぼったい唇をくいと持ち上げて笑った。
「何とかなるって思ってりゃ、何とかなるもんだってなァ」
エースの頬は瞬く間に紅潮していった。
「そ……そんな楽観的な気持ちでモビーを危険にさらしたってのかよ!」
「そりゃもちろん、船体への負担やクルーたちの体力の消耗もすべて考慮の上で決めた航路だよい。それでも、何が起こるかわからねェのがこの新世界だ。最後は神頼みぐらいしたっていいだろい?」
「まったく……」
自信に満ちた憎らしい顔は、それでもどうしようもなく愛おしい。
「まるで神様が助けてくれるのがわかっていたみてえだな」
呆れながら、エースはポケットの中からあるものを取り出した。
「これは青珊瑚かよい?」
「そうだよ。でも、真っ二つに割れちまった」
ゼロ磁場を抜けた後、エースは真っ先に倉庫へと向かった。朝が近づいた船内はうっすらと青い空気に包まれていて、炎がなくても中の様子がわかった。
木箱や海図が散乱した部屋の中には、もう子どものマルコの姿はなかった。そして、あの青珊瑚は二つに割れて床に落ちていた。それを拾い上げてエースは思った。
きっと、あの小さいマルコがこの船を救ってくれたのだろう、と。
「珊瑚は海難防止のお守りだって言うからなァ……そいつがモビーの身代わりになってくれたのかもしれねェよい」
どこから得た知識なのか、マルコはエースの手から青珊瑚の片割れを拾い上げた。
「でも、これはマルコの誕生日にあげようと思っていたんだけどな」
「ちょうどいいじゃねェかよい」
そう言ってマルコはエースの手をそっと閉じて残っていた青珊瑚の片割れを握らせた。
「半分ずつ持っているってのも悪くねェだろい? それに、モビーを守ってくれた珊瑚なら、なおのこと心強い」
「そ、そっか……!」
へへっと笑って、エースはもう一度マルコに抱きついた。
「誕生日おめでとう、マルコ!」
「ありがとうよい」
「この後はずっとオレと一緒にいてくれるんだろ? そんでマルコのいろんな話を聞かせてくれよ」
子犬のようにキラキラと目を輝かせているエースを見て、マルコは眼を細めて笑う。
「あァ、もちろんだよい、エース。だがその前に、少しだけ眠らせてくれねェか?」
周りからはクルーたちの大いびきが聞こえてくる。ふいにエースにも眠気が襲ってきた。
「ふあああ……そうだな、まずはゆっくり寝て、その後のことは起きてから考えるか……」
言い終わらないうちに、エースはマルコの胸を枕にして眠りに落ちた。すぐに聞こえてくる規則正しい寝息に、マルコは声を殺して笑った。
水平線からは朝陽が顔を出し始めていた。次第に空の色は深い青から朝焼けのオレンジ色へと変わっていく。
青珊瑚の欠片を光に当てながら、マルコは静かに笑う。
「……青珊瑚には確か、純粋とか素直という意味があったなァ。エースがこれを選んだのもよくわかるよい」
そういえば、不思議な足音を聞いたというのも、あながち嘘ではないのかもしれない。
真っ直ぐな心を持つエースだからこそ、自分たちには見えない何か崇高な、「超自然的なもの」だって見えたのではないだろうか。くわえて磁場の不安定な海域では、何が起こってもおかしくはない。
結局、エースが見たものは何だったのか、目を覚ましたら聞いてみようとマルコは思った。
「またひとつ年を取って、オレには純粋さのかけらもなくなっちまったよい」
自虐的にそう言って笑うと、どこかから軽やかな足音が聞こえてきた。
ひたひたひた……
マルコが振り返ると、まぶしい朝陽の中に小さな人影を見つけた。坊主頭に鳥の巣を載せたような、不思議な輪郭。
「お前は誰だよい?」
そう呼びかけて、次に瞬きをしたときには、もうすでにそこには誰もいなかった。
大分疲れているようだ、とマルコはひとつあくびをする。そして、エースの頭を何度か撫でてから、静かに目を閉じた。
眠りに落ちる直前、マルコの脳裏には、つい先ほど見た小さい影の映像が映し出された。
逆光の中で見たそれは、ただの影だったが、何故だか一瞬だけ表情が見えたような気がした。
その子どもは確かに、こちらを向いてにぱっと笑っていた。
HAPPY BIRTHDAY MARCO!!
BLUE CORAL −おわり−