午後になると、あんなに荒れ狂っていた雷は、そこらじゅうの雲をごっそりさらって去っていった。
引っかき回された海は、まだ落ち着きを取り戻していないようで、分厚く高い波を次から次へと運んでくる。
「すっげー!!」
ルフィがボードを抱えて砂浜を走り出す。
オレは一度だけ後ろを振り返って、そしてすぐに視線を海に戻した。
「来ねえなあ……」
午後から波乗り納めしようって言ったのはマルコなのに。
オヤジさんの用事を済ませたら来るらしいけど、約束の3時はとっくに過ぎてる。
でも、約束したもんな。オレのエアリアルが見たいって言ってくれたし!
せっかくだから、ルフィも連れて来て二人ですげえの見せてやろうって張り切ってるのに。
太陽はすでに傾き始め、空を少しずつオレンジに染めていく。
朝焼けとはまた違う、何となくもの悲しい空。
冬の日没は早い。
鳴る気配すら見せない携帯を置いて、オレは何度か頭を振り、そして海へと走り出した。
波は最高にいいコンディション。パドリングして進み大きなうねりが迫ってくると、すかさず立ち上がって、テイクオフ。
手始めにフローターをかまし、そこからすぐに向きを変え、波の頂点で切り返すオフザリップ。もう余裕でできるようになった。
ボトムからまたトップへと切り込み、目を閉じて足の感覚だけでくるりと体勢を変える。
目を開けると、キラキラはじけ飛ぶ波しぶき。テールスライドだって、完璧だ。
でもさ、やっぱり何か物足りねえんだ。
カットバックしてもう一度テールスライドを決めると、ふと砂浜に人影が見えた。
「うっはー! すっげえいい波!!」
その声の方向に目を向けると、向こう側の波の上で、ルフィがくるりと体をひねって、先にエアリアルを決めた。
でもオレは、悔しいとかそんな気持ちは全然なくて、やっぱり何か物足りない気分でいっぱいだった。
その理由は、もうとっくにわかってるんだけどさ。
流されるままに砂浜にたどり着くと、その人影は見覚えのある……。
「あれ……じいさん?」
「あーっ! サボだ!!」
オレが向いている方とは違う方向からルフィの声が聞こえて、慌てて振り返る。
「……え?」
あり得ない光景を見た時に、ほら、よくあるだろ? 目をパチパチする仕草。
あれって本当にするもんなんだな。
だって、目の前で起こっていることを理解するまで、オレは周りの音が何も聞こえなかったし、足は砂の中に沈んでいるようで一歩も動けなかったし、口もだらしなく開けっ放しだったと思う。
「おっさん! 何すんだよ、下ろせよっ!!」
遠くから近づいてくるのは、確かに……サボで。でもサボはマルコの肩に荷物のように担ぎ上げられていて。
つーか、何でマルコが!?
「おーっす! オヤジ、お帰り!!」
マルコの後ろからサッチが歩いてきて、オレの背後に向かって手を挙げる。それで今度は慌てて逆の方向に振り返る。
そこには、車椅子に座ったじいさんと、あの歌舞伎男がいて。
「おう、サッチ。しばらく見ねェうちに、いい男になりやがって……グラララ」
「はっはー! 嬉しいねえ。でもオレはもともといい男だからよ」
「相変わらず調子いいなぁ、サッチ」
「イゾウも相変わらずおきれいで」
「うるせぇ」
オレを挟んで、サッチとじいさんたちは会話を交わす。それを目で追っていたせいで、オレは前を見て後ろを見てを何度か繰り返した。
いや、そんなことより!!
「サボ! お前どうしたんだよ? 何でマルコと!?」
「んなことこっちが聞きてえよ!!」
マルコの肩の上で暴れながらも、サボは完全にテンパっていて、オレをどこに売り飛ばすんだとか、海に沈めるつもりかとか、訳わかんねえことをずっと叫んでいた。
「そんなに言うなら、沈めてやろうかよい?」
そう言って、マルコは革靴のまま海の中へと入っていく。サボはさらにテンパって、ギャーギャー騒いでいる。
「ちょ……ま、マルコ! やめろよ!!」
ようやく我に返り、オレは慌てて二人を追いかける。でも、マルコはオレの呼びかけを無視して、どんどん海の中へ。
膝まで濡らしていた波は、次の瞬間には腰の辺りまで迫ってきて。
「そんな格好で海に入ったらマジで死ぬって!!」
オレはウェットスーツだからまだ平気だけど、普通の服着て海に入ったら、それこそ一発で……。
振り返ったマルコの顔は悪人みてえに怖くて、そこでチッと舌打ちをしてから、目を細めて言ったんだ。
「……お前が心配してんのは、オレか? それともこのガキか? どっちだよい?」
「……は?」
いや、どっちもだけど。何言ってんだ、このおっさん?
「ははは! 大人気ねえなあ、マルコさんよ! もうサボも降参してるみてえだし、放してやれよ」
サッチが腹を抱えて笑いながら、波間にいるオレたちを手招きしていた。
「サボー! オレのエアリアル見てくれよ!」
空気を読まないルフィが、砂浜に放り投げられたサボの元へ近づいていく。
「オレはお前らみてえにヒマじゃねんだよ……」
オレとは目を合わせようとせず、サボはうつむいたまま消えそうな声で言った。
「やっぱり海に沈められてェかよい?」
背後からマルコの冷たい声が聞こえると、サボはびくっと飛び上がって、オレにしがみついてきた。
「おいおいマルコ……ガキのケンカに大人が割り込むもんじゃねェ」
じいさんがそう言って笑うと、マルコは急にムッとして、何だか子どもっぽい顔になった。
「オヤジ……」
えーと……いい加減整理させてくれよ。
つまり、これは。
「もしかして、あのじいさんがマルコの……」
マルコの大事な恩人とかいう「オヤジ」なのか?
そう聞こうと思ったら。
「オヤジ!」
「オヤジ、元気だったかー?」
「オヤジィ!!」
雨後のタケノコみてえに、あちこちから人が集まってきて。しかも強面で図体のでかいのがいっぱい。中には小さいのもいたけど、とにかく30人くらいがじいさんに駆け寄っては口々に「お帰り」とか「元気で良かった」って声をかけている。
そこへ、マルコとサッチも近づいて、じいさんを囲んでずらりと並んだのを見て、オレとサボは思わず声を揃えて、
「ぜってーカタギじゃねえ……」
って、つぶやいた。
そこで、ハッと顔を見合わせると、サボは慌ててオレから離れて背を向けたんだ。
「……ひねくれてて悪かったな」
「そうだな」
オレは間髪入れずに答えて、後ろからがっちりとサボの肩を掴んだ。
「サボはさ、元々ひねくれてるよ。でも、それはどっちかって言うと潔いっつうか、何ての? いつも自分の意思をしっかり持っててさあ……」
自分のやりたいことには真っ直ぐなひねくれ方って言ったら、矛盾すんのかな?
サーフィン始めた時に親にすっげえ反対されても、成績よけりゃ文句ねえだろって突っぱねて。そんで波乗りしながら塾に通って、成績だってトップクラスで、本当にすげえなあって。
「今のお前はやりたいこと全部我慢してて、でもそれで成績落ちてんだったら意味なくね? そんでもし受験に失敗したら、お前ぜってーサーフィンのせいにするだろ? 最初っから波乗りなんてしてなけりゃ、真面目に塾だけ通ってりゃよかったとか言ってさ」
でも、オレは違うと思うんだ。うまく言えねえけど。
「わかってるよ……誰かのせいにすりゃ楽だもんな。でも、そんなのただの言い訳だし、逃げだよなあ」
サボはやっとオレの目を見て、それで少しだけ笑ってくれた。
「あーもう、らしくねえことすんのは、やめた!」
そう言って今度こそサボはいつものように笑ったんだ。
「遅れた分はすぐに取り戻してやるからな」
その笑顔を見てオレは、すっげえ嬉しくて。でも何故か同時にすっげえ泣きたくなって、いろんな感情がごっちゃになったままサボにぎゅうっと抱きついた。サボは「冷てえ! 濡れるだろ!」って嫌がってたけど、オレはそんなことお構いなしに随分と長い間サボにしがみついていたんだ。そうしたらルフィも便乗してきて、何だかよくわかんねえまま、オレたちはじゃれ合うように抱き合って、大声で笑っていた。
「……エース」
「ん?」
ひとしきり笑って落ち着いてくると、サボが急に声のトーンを下げて、オレにだけ聞こえるように言ったんだ。
「そろそろ離してくんねえと……オレ、あのおっさんにマジで海に沈められるわ」
気がつけば、夕陽はゆらゆらと揺れ、今にもその輪郭を崩しそうになっていた。
オレとルフィはボードを海へ放り投げ、高い波に向かってパドリングする。
「おー、来たぞ、でっけえの! ルフィ、行けっ!!」
そう叫ぶと、少し先を進んでいたルフィが軽々とテイクオフして、すいすいと波の腹を滑っていく。
そして、ひらりと空に舞い、エアリアルを決めた。その背景に広がる空は、夕焼けのオレンジ色よりももっと濃い、不思議な色をしていた。
何て言う色だっけな?
「ルフィーッ! いいぞ! すげえ!!」
砂浜からサボの声が聞こえてきた。
そんじゃ、次はオレはもっとすげえの決めてやる!
視界を半分以上覆い尽くす程の高い波が迫ってきて、オレの心臓はバクバク鳴り始める。
緊張とかじゃなくて、すっげえワクワクしてるんだ。
だってさ、サボがいて、ルフィがいて。そんで……マルコもいて。
あの夏の日、テールスライドを決めた瞬間の気持ちが一気に蘇ってきたんだ。
物足りなかった気持ちが満たされて、そんでもって嬉しくてたまんねえ。
このまま空も飛べるような気がして、波のボトムからトップへ向かって一気に攻めていく。
木製のボードはもうオレの体の一部みたいになっていて、波がパシャリと乾いた音を立てた瞬間、視界の中で海と空が逆転したんだ。
ゆっくりと回っていく世界は、泣きたくなるほどきれいな色に染まっている。
太陽が姿を消した後に広がる深い赤。
……ああ、思い出した。確か、茜色って言うんだっけな。
「エース! お前サイッコー!!」
サボは膝まで海に入って、オレに手を振っていた。
そしてその後ろでは、マルコが目を細めて笑っている。
カットバックをしながら、オレはグッと親指を立ててみせた。そうしたら、サボとマルコは二人揃って同じように親指を立てて返してくれたんだ。
何かそれを見たら急におかしくなって。
オレは砂浜にたどり着くまで、ずっと一人でケラケラ笑っていたんだ。
ボードを脇に抱え、オレは真っ直ぐにマルコに向かって行くと、どうだと言わんばかりに胸を張ってみせた。
そうしたら、マルコの大きな手がオレの髪をわしゃわしゃと撫でてくれて、それだけで一気に体が熱くなって。
「……完璧なエアリアルだったよい、エース」
そう言って笑いかけられると、今度は頭がボーッとして、何だかよくわからないうちに、オレは倒れ込むようにしてマルコに抱きついていたんだ。
あー、やべえ。オレすげえ濡れてんのに。
そう思いながらも、コート越しでもわかるマルコの体つきの良さとか、手の温かさとか、さらにオレの耳がちょうど当たる位置にあるマルコの頬の冷たさとか、そういうのを同時に感じると、また心臓がバクバクしてきて。
立っているのもままならなくなってきたから、何かおかしいなと思ってボーッとする頭を必死で動かして、何とかそれを伝えてみた。
すると、先に声を出したのはサッチの方で。
「何だあ? 体が熱くて、心臓バクバクで、頭がボーッとする? それはなあ−−」
「そりゃ、風邪だよい」
その後のことはよく覚えてない。
気がついたらもう正月の3日目で、熱を出して寝ているうちにオレは18歳になっていた。
「ははは! そんなおもしれえことがあったのか。オレも見物に行きゃよかったな!」
シャンクスが酒臭い息をまき散らしながら、豪快に笑う。
よく言うよ。あちこち飲み歩いてて、行方知れずになってたくせに。
「そりゃもうあいつの落ち込みようと言ったらなかったぜ? お前が風邪引いてんの気づかずに波乗りに誘っちまったんだもんなあ」
サッチはそう言いながらシャンクスに水を突きつけ、オレには温かいココアをくれた。
「あのおっさんメチャクチャだよなー。いきなりひとんちに来てさ、オレのこと引っ張り出して」
「え? マルコそんなことしたのか?」
サボは自分でコーヒーを入れながら、苦虫をかみつぶしたような顔をした。ルフィは冷蔵庫からコーラを取り出して飲んでいる。勝手知ったるレッド・フォースの店の中。
「お前らのケンカが終わらねえと、オレの番が回ってこねえとか、訳わかんねえこと言ってさ。あんまりにも鬼気迫る顔だったから、オレマジで海に沈められると思ったよ……」
大げさに身震いをしてからサボはオレの隣に座り、「でもあのおっさんには感謝だな」って言って、がっつりと肩を組んできた。
「オレ、地元に残ることに決めた」
驚いてサボを見ると、サボはニヤリと笑って言ったんだ。受ける大学は全部合格してみせる、でも決めるのはオレだからって。
「だから、大学行っても一緒にバカやって、一緒に波乗りしような!」
そう言って笑った。
でも、いい大学受かったらそっち行っときゃいいんじゃねえの、とか正直思ったけど、それはサボが決めることだからな。
それに、春からも一緒にいられるってのはマジで嬉しい!
「じゃ、3人でマルコにサーフィン教えてもらおうぜ!」
オレもサボの肩を組むと、そこにまたルフィが飛び込んできて、3人ででっけえ声で笑った。
「あらら……おっさんの番が回ってくるのはいつになることやら」
「あ、メール……マルコだ!」
サッチの言葉を聞き流してすかさずメールを開くと、短い文章。
”遅くなったけど、誕生日おめでとう”
だって。つか、マジで遅えし。
こんだけ近くにいて、もう時差もねえってのに。思わず笑いがこみ上げる。
すかさず電話をかけると、マルコはすぐに出てくれて「今から会えるか?」って言ってくれた。
二つ返事でオーケーして、オレは立ち上がる。
「マルコと会ってくる!」
「オレも行くー!」
ルフィもついて来ようとしたところを、すかさずサボがその首根っこを掴んで引き留める。
「いいじゃん、ルフィもサボも一緒に3人で行こうぜ?」
「いや、オレは遠慮しておく」
次はおっさんの番でいいよ、とサボは意味不明なことを言っていた。
「二人っきりで会ってくればいいじゃねえか! ほら、あれだよ。体で支払いの第一回目だと思ってさ」
サッチがさらに意味不明なことを言ったので、そのまま意味わかんねえって返すと、てめえが言ったんだろうがってキレられた。
「とにかく、おっさん待たせたらまーた機嫌悪くなっちまうぞ? あと、新年会には遅れずに来いよな。オヤジも楽しみにしてるからよ!」
わかった、とうなずき、店の扉に手をかけたところでピタリと動きを止める。
「あー、やべえ。体がカッカしてきた……」
全身が一気に熱くなり、心臓はバクバクしている。そんで、頭もボーッとしてきたので、早く風邪治んねえかな、って肩をすくめると、サッチが呆れながら笑って両手の平を上に向けた。
「だからよ、何度も言ってるが、それは−−」
店の外で軽快なクラクションが鳴り、オレは勢いよく扉を開けて飛び出した。
「マルコ!!」
サッチには悪いけど、その言葉の続き……
オレはもうとっくに知ってるから!
茜色エアリアル −おわり−