「サンジ君」
キッチンでトマトジュースを飲んでいると、背後から呼びかけられた。
「ナミさん?」
「ダメ、振り向かないで」
言葉で制止されるよりも先に、オレは振り返っていた。
「だから、ダメだってば。あんた鼻血出してぶっ倒れるでしょ?」
大きな水槽の丁度反対側からその声は聞こえてくる。
のどかに泳ぐ魚たちの合間から、ゆらゆらと揺れるオレンジの髪が見えた。
ああ、ナミさんだ。
懐かしさよりも先に胸が苦しくなった。
だって2年も離ればなれになっていたんだぜ?
オレたちが過ごしてきた濃密な航海の記憶。それはこの2年という時間で少しずつ薄められて、まるで夢の中の出来事のようにぼんやりとした輪郭になっていた。
いや、本当は忘れるわけねえんだけど。
「2年経ったらこのザマだよ」
「ホント、情けないのね」
くすくすと笑う声が、壁に跳ね返ってオレの元へ届く。
水槽に背を向けて、残ったトマトジュースを飲み干した。
ペロリと唇を舐めると、トマトの酸味が鼻から抜けて、血のような味がした。
タバコに火を点けて、その鉄っぽい味をかき消す。
「あ、タバコの香り懐かしい」
時間差でナミさんの穏やかな声が聞こえた。
「銘柄は同じ、数量は3倍」
「3倍!? 肺の中真っ黒じゃないの?」
「口を守る必要があったもんで」
「何言ってんの」
カツ、カツとナミさんのヒールがキッチンの床を軽やかに鳴らす。
その音はオレに向かって近づいてくる。
「振り向いちゃダメよ? 私もう隠れる所がないんだから」
「……迷うなあ」
「何を?」
「今すぐナミさんを抱きしめるか、自分の命を守るか」
「バーカ、大げさなのよ」
カツ、と真後ろで足音が止まった。追い風がふわりとやってきて、ナミさんの髪の香りがオレを包んだ。
それだけで、鼻の奥が熱くなるのがわかった。
「今ここで死んじゃったら、何のために2年もガマンしてきたのかわからないでしょう?」
するりと脇の下から細い腕が滑り込み、ナミさんは背中からオレに抱きついてきた。
薄らいでいた感覚が一瞬にして戻ってきた。
2年分薄められたモノが2年前以上の濃度を持ってオレに襲いかかってくる。
喉の奥から鼻を抜けて、たぎるような記憶の液体が吹き出ようとしていた。
「ちょっ……やべえかも」
早い話が、鼻血が今にも吹き出しそうだった。
「目を閉じて、これは夢の中の出来事だと思えばいいのよ」
そんな無茶な、と思いながらも目を閉じて必死で自分に言い聞かせる。
これは夢だ、これは夢だ、これは夢だ……と。
ゆっくりと呼吸を整えながら、背中の温かい感触に身を委ねる。
夢の中のナミさんは、水槽の向こう側に見えたおぼろげな輪郭と同じ。
毎日毎日、夢の中で会いたいと願い、夢の中で会うたびに目を覚まして虚しくなった。
だから、1日も早く会いたかった。
会って、抱きしめてキスをして、2年分の時間を埋め尽くしたかった。
その輪郭をしっかりと確認したかったんだ。
ああもう、死んでもいい!
この一瞬の方が大切なんだ!
そう決心して目を見開くと、視界は真っ暗だった。
「死んでもいいとか思っちゃダメよ?」
目の前から聞こえてくるナミさんの声。でも、その姿は見えない。
いつの間にか、キッチンの照明が落とされ、タバコの小さな光だけが暗闇に浮かび上がっていた。
ひょい、と口元からタバコが奪われると、小さな光は遠ざかっていった。
視線でそれを追いかけていると、ふいに唇に触れるやわらかいもの。
しかしそれはほんの一瞬の出来事だった。
「またこれからはずっと一緒よ」
カツ、カツ、カツと暗闇の中を遠ざかっていくヒールの音。
照明をつけると、床にはトマトジュースがこぼれていた。
いや、違う。
食器棚のガラスに映ったオレの顔。
鼻から一筋、赤いモノが流れていた。
「まあ……荒療治って方法もあるかな」
そうつぶやいて、冷蔵庫からもうひとつトマトジュースの瓶を取り出した。
Tomato Juice おわり 2011.3.2 zono