top

about

novel

diary

link

index

z*3



 

trance or ecstasy 4


MARCO × ACE



空が白んで、鳥のさえずりと共に湿気を含んだ空気が流れ込んでくると、オレはいつも憂鬱な気分になる。
朝露に濡れた花が、その甘い香りを一層際だたせる時間。
鼻孔から忍び込んだ甘ったるいそれは、あっという間に脳内に届き、どこか熱に浮かされたような気だるさを与えてくるのだ。
ぎゅっと瞼に力を込めると、その向こうには刻々と光に包まれていく世界の色を感じる。それは白いようでいて、ぼんやりとしたオレンジやピンクの輪郭を持ち、そしてひどく美しい。そこに甘い花の香りがまた流れてくると、今度はとても穏やかな気持ちに変わる。
どうやら軽い中毒にかかっているようだ。
それがどんな花なのか見たこともないのに、その虜になってしまいそうで怖い。
特に、太陽のにおいに混じって鼻先をくすぐる時は、何か欲情にも似た熱いモノが体の中を駆け抜けていくのがわかる。

というか、朝っぱらからおかしな気分になってる場合じゃねェ。

煩悩を切り捨てるようにパッと目を開ける。

「……」

そしてすぐに目を閉じ、眉間にしわを寄せた。

……何だよい、今のは? オレはまだ寝ぼけているのか?

もう一度、ゆっくりと瞼を開いていくと、至近距離でオレの顔を覗き込んでいる黒い瞳。その中にはランタンのような小さな灯火がひとつ、ふたつと揺れていた。
「なっ……!?」
「おはよ、マルコ!」
オレが声を上げるよりも先にそう言ったのは、紛れもない、あの黒髪の少年、エースだった。
ベッドサイドに立ち、オレの肩を挟むように両手をつき、そして鼻先が触れるほどの距離まで顔を近づけている。
ニカッと笑った時に見える白い歯が、やけに浮き上がって強調される。
「お前……どこから、どうやって、というよりなんで……どうしてここが!?」
この状況について、まず何から聞けばいいのかわからず、オレはエースに顔を覗き込まれたまま身動き一つできずに言葉を羅列した。
「えっと、窓から来た」
「窓ってお前……」
確かに、部屋の窓は開けたままで、網戸だけ閉めて寝たのは覚えている。とはいえ、ここはホテルの3階で、さすがに誰かが外から侵入できるような高さではないはずだ。
「オレ、木登り得意」
「あァ?」
まだエースに見下ろされたままの状態で、首だけを横に向けると、確かに窓の外には椰子の木の天辺が揺れているのが見えた。
とはいえ、そこを登るか普通? 建物との距離だってあるし……。
「えっと、登ってから葉っぱにつかまって、飛んだ」
「へェ、なるほど」
…… っていやいやいやいや……ちょっと待て! どこぞのサーカス団じゃあるめェし。
「マルコがここだって教えてくれて、飛んで来たら、本当にマルコがいた」
「……はァ?」
言ってる意味がわからねェ。それでもエースは嬉しそうに笑って、ようやく顔を離した。オレも起き上がり、頭をがしがしとかきながら部屋の中を見渡すと、籐の椅子の背もたれには、あの大きな青い鳥が止まっていた。
「な、マルコ!」
「グエッ!」
マルコと呼ばれた青い鳥は、羽根を大きく広げてから、ふわりと浮き上がり、ゆるやかに空気に乗りながら、エースの腕に降りてきた。
「……そいつ、マルコっていうのかよい?」
「ああ、あんたの名前をつけたんだ! 何か似てるだろ? 頭とか!」
ぴくり、と頬がこわばるのがわかったが、それについては特に何も言わずにおいた。
「ややこしいことすんじゃねェよい」
「ややこしい?」
急にきょとんとして、首を傾げ、エースはオレの目をじっと見つめる。
「ええと、だから……オレもマルコ、そいつもマルコで……こう、どっちかわからねェというか」
「大丈夫! こいつ、鳥。あんたはニッポンジンだろ?」
「だからそういう意味じゃなくてだな……」
そしてその後の言葉が続かず、オレは小さくため息をついた。
日本語ってこんなに難しいモンだったか? 目の前の少年と一体どうやって意思疎通をはかればいいのか、正直わからない。

エースは、この島で生まれ育った日本人だった。

詳しいいきさつなど知らない。ただ、そうなのだとあのマキノという女店主が教えてくれた。
普段は現地の言葉を話し、英語はあいさつ程度。そして肝心の日本語は、小さい頃に覚えたという日常会話のレベル。
とはいえ、立派に成長した19歳の少年で、何も知らないただの子どもではない。
ただ単に、思っていることを伝える日本語のボキャブラリーを持ち合わせていないだけのこと。
きっと、頭の中で考えていることはそれなりに複雑なのだろうが、会話をするとまるで小さな子どもと話しているような気分になる。そのアンバランスさが、妙に危なげで、放っておけないと思ってしまうのだが。
「あと何だっけ……ああ、そうだ!」
嬉しそうにまた歯を見せて笑うと、エースはずいっとオレに向かって顔を近づけた。

「”なんで”は、マルコに会いたかったから!」

ストレートな言葉は、やはりストレートに心臓を貫いて、オレはどんな顔をすればいいのかわからなかった。

「……なんで」
「え? だからマルコに会いたかったから」
「いや、だから……なんで、会いたかったんだよい?」
そう問いかけると、エースはうーんと腕を組み、鳥の”マルコ”と顔を見合わせて右に、左に首を傾げていた。
現地の言葉なら、きっとすぐに答えられるだろうに、複雑な言葉を自分の知っているだけの日本語に変換するのに必死で頭を働かせているようだ。
その間にオレはゆるゆるとベッドから抜け出し、冷蔵庫からミネラルウォーターを出して一気に飲み干した。随分と喉が渇いていたらしい。まるでカラカラに乾いたスポンジみたいに、体が潤されていくのがわかる。
視線を移すと、青い鳥とにらめっこをするようにじっと何かを考え込んでいるエースがいて、上半身裸のその背中には、今にも飛び出してきそうな存在感を持つ神の姿。
「答えは出たのかよい?」
教師にでもなったような気分だった。ゆっくりとエースの元へ歩み寄る。
エースも、少し自信なさげにうなずくと、オレの方に向き直り、頭の中で作り上げた文章をなぞるように視線を上に泳がせた。
「マルコの目が」
「目?」
「ニッポンジンなのに青い、不思議」
「あァこれは……」
思わず説明しそうになって、慌てて口をつぐむ。今はその理由など必要ない。
体を曲げて、オレの方から顔を近づけると、エースはじっとオレの目を覗き込んで、そしてふわりと笑う。
「ここの海と同じ、すっげえきれい」
じわり、と心の奥が熱くなるのを感じて、思わず苦笑する。何一つ無駄のないまっすぐな言葉は、理論武装した中年男の偏屈な思考など、たやすく打ち破ってくるのだ。
「……ありがとよい」
手を伸ばしてその黒髪を撫でてやると、思ったよりもやわらかくて、しばらくその感触に気持ちを奪われてしまった。
エースはくすぐったそうに肩をすくめ、そして鼻をこすってからへへっと笑った。

「だから、すげえ好き。ずっと見ていたい」

純粋さというのは、時に最強だと思う。
太陽の恵みを存分に受けて育った少年は、この島の海のように透明な心を持っているのだろう。

「……ずっと見るようなモンじゃねェよい」

いたたまれずに目を逸らすと、エースはオレの頭を掴んで強い力で自分の方へと引き寄せた。
じっとオレの目の奥を覗き込むその黒い瞳には、やはり灯火のように光がうごめいている。

「いいんだ、オレが見たいから」

大きくため息をつき、少し荒々しくエースを押しやると、オレは背を向けた。
「マルコ? なあ、マルコ」
オレの肩を掴んで揺らす力は強かったが、それでもオレは振り返らなかった。
「ちぇー、ケチだなマルコは」
そう言って、エースは鳥のマルコをけしかけると、「じゃあな」と一言残して風のように部屋から出て行った。
まさかまた窓から出て行くとは思わなかったオレは、慌ててベランダから体を乗り出すと、すでに地上に降り立ったエースが嬉しそうにこちらを見上げて笑っていた。
「オレ、また来るよ! だからマルコもPARTYS BARに来てくれよな!」

その笑顔を見て、ひどく胸が痛んだ。

大声を出して墓穴を掘ったせいで、それを聞きつけたホテルの従業員が何か叫びながら走ってくると、エースは慌てて茂みの中へ消えて行った。
ガサガサという音が遠ざかっていくと、辺りには朝の静けさだけが残る。

「……オレなんか見てたら、穢れちまうぞい」

自虐的にそうつぶやいたが、それがひどく自分の心に重くのしかかった。

「きれいな目をしている」なんて言葉は、とうに聞き飽きているというのに。しかもそれは上っ面だけの、駆け引きのために使われる薄っぺらい言葉だったはずなのに。
あの少年だけは、心からそう言ってくれているのだと思いたくて。

鏡に映った自分の顔を見ると、ひどく戸惑った表情をしているのがわかった。

オレは生まれつき体の色素が薄いらしく、肌は白く、髪は金髪で、目は青い。もちろん、生粋の日本人だし、近しい家系に外国の血が混じっているなんて話は聞いたことがなかった。オレ以外の家族はみんな黒髪で黒い瞳をしている。
それが原因でよくからかわれたし、何故オレだけが、と子どもの頃は劣等感を感じたものだった。
雪深い地方では、ごく稀にそういう人間が生まれるのだと、近所の生き字引とかいう婆さんが話してくれたが、そんなものは気休めにもならなかった。
オレはただ、「普通」でいたかった。しかし、誰もが二言目には「珍しい」だの「変わってる」だの、あげくの果てに「うらやましい」などと言うのだ。
だからオレは、それならいっそ「特別」な人間になってやろうと思った。そして、それはあまりにも簡単だった。
文武両道、品行方正、才色兼備、八面玲瓏、高材疾足、鶏群一鶴……そんな褒め言葉をすべて並べ立てても足りないくらいに、オレは完璧で、北の小さな田舎町始まって以来の天才とも呼ばれた。気がつけば、オレの容姿をとやかく言う人間は、もう誰もいなかった。それでも、オレの心が満たされたわけではなかった。

高校を卒業すると、オレは一流大学に進学し、東京暮らしを始めた。
都会には個性の強い人間が集まるので、これで自分も烏合の衆に紛れるだろうと思ったが、その読みは見事に外れ、東京でもオレは物珍しい存在で、常に好奇の目にさらされた。
頭の悪い女たちは競い合うようにしてオレに取り入ってきた。そういう意味では女に不自由はしなかったが、女をとっかえひっかえ抱いたところでオレの心が満たされることはなかった。
男好きのする容姿でもあったらしく、言い寄られれば男ともつき合ったし、興味本位でセックスもした。男とするのもそれなりに気持ちよかったが、まァこんなもんかという程度で、やはりオレの心は満たされることがなかった。
「特別」であるということは、好意だけでなく憎悪の対象にもなった。
ある夜、薄暗い路地を歩いていたところを突然後ろから殴りかかられ、袋叩きにされた。見覚えのある顔もいたが、所詮一人では何もできないのだろう。不意打ちをされ、群れをなして襲いかかってくる男たちに、オレ一人では適うはずもなかった。
顔を殴られ、腹を蹴られ、頭突きを喰らい、ボロ雑巾のようにうずくまっている時に、オレはあることに気付いた。
「……血」
アスファルトにぽたぽたと落ちる赤いモノは、オレの血だった。そして、体中に走る激痛。
「……ははは」
オレは嬉しくてたまらなかった。自分の立場も忘れて大声で笑い出すと、オレを取り囲んでいた連中は、まるで気のふれたモノでも見るかのように顔をしかめていた。

そう、この時までオレには「生きている」という実感などなかったのだ。

ちゃんと自分の体には赤い血が流れていて、痛みを感じることができる。そしてオレの思考は極論にまで達して、笑いながら叫んでいた。
「オレを殺せ! 殺せ!! オレは死んで、てめェらは犯罪者だ、ざまあみろい!」
まるで、悪魔に魂を乗っ取られたような気分で、それが異常な程に快感だった。これまでずっと押し込んできた自分の本性が、堰を切って流れ出して来たようだった。

「生」を一番実感できるのは、まさに「死」の直前じゃねェか。そんな簡単なことにずっと気付かずにいたなんて。

「どうした? 殺せばいいだろい? 安い命だ、こんなモンてめェらにくれてやる」
オレの言葉に煽られた男が鉄パイプを大きく振り上げたのが見えると、どうしようもない高揚感に包まれて、ああ、オレは狂っていると頭の奥で思った。
でも、今さらそんなことに気付いても遅すぎる。だってオレはここで死ぬのだから。

ゴリッ、という鈍い音が聞こえると、辺りは不気味なくらい静まり返った。

「……安い命なんざ、この世にはひとつもねえぞ、クソガキ」

いつの間にか閉じていた目をゆっくりと開けると、そにには謎の大男がいてオレを見下ろしていた。頭に鉄パイプをもろに受けて、だらだらと血を流しながら、それでも目を見開いてオレを睨みつけていた。
訳がわからないまま胸ぐらを掴まれ、そして鉛のように重い拳で殴り飛ばされた。どうやらそこで、意識が途切れたようだ。

次に目覚めたのは、薄暗い病院のベッドの上。
やはり視界には謎の大男が映っていて、そして穏やかに笑っていた。頭には血のにじんだ包帯。
「ようやくお目覚めか、クソガキ……心配するな、ここはオレの知り合いの病院だ。持ち物を見させてもらったが、お前、えらく優秀な大学生じゃあねえか」
男はオレの目をじっと見つめたまま話し続けていた。
「どうしてオレを……助けた?」
「お前が助けてくれって目をしていたからだ」
「ウソつけ」
口元の大きな髭と共にゆるやかに笑うと、男は大きな手をオレの頭に乗せて何度か髪を撫でた。その手はとても温かくて。
「いや、オレには確かにそう見えたなァ……”助けてくれ、本当のオレを見つけてくれ”って、捨て犬みてェな怯えた目だった」
「……」
オレが言葉を失うと、男はグラララと不思議な声で笑い、そして子どもを慈しむようなまなざしを向けた。
「なあ、マルコ?」
名前を呼ばれた瞬間、驚くほどの涙が目から溢れてきて、オレは号泣した。鼻水を垂れ流して、何度も嘔吐きながら随分と長い間泣き続けた。その間、ずっと男はオレの頭を撫でてくれていて、それがとても心地よかった。
涙が流れるのも、体中がズキズキと痛むのも、手の温かさを感じるのも、すべて自分が今生きている証なのだと知った。
そう、オレは「生きている」のだと。この男に教えてもらったのだ。

それが、「オヤジ」との出会いだった。

オレは大学をやめ、オヤジの側で雑用のアルバイトとして使ってもらった。別に金なんていらなかった。ただ、オヤジの側にいたかった。オレのことを「息子」と呼んでくれるオヤジを、本当の父親のように慕うようになっていた。
オヤジは小さな町の不動産屋から、たった一代で業界の一、二位を争うまでに自分の会社を成長させたやり手の社長だった。部下たちからの信頼も厚く、業界内での評判も上々。ちょうどその頃、事業拡大で都市開発やリゾート事業に乗り出そうとしていた。
海外出張の時には、必ずオレも同行させてもらった。 英語、フランス語、ドイツ語、中国語が話せたオレは、行く先々で重宝された。時には通訳を出し抜いてしまうこともあり、後でオヤジに怒られることもしょっちゅうあった。ひとしきり怒られた後に、決まってオヤジは「でも、お前がいてくれてよかった、マルコ」と言って頭を撫でてくれた。それがとても嬉しくて、オレは小さな子どものように喜んだ。
日本から一歩外に出ると、世界には様々な肌の色、目の色、髪の色の人間がいて、オレの容姿を気に懸ける者など一人もいなかった。
そこで初めてオレは「普通」の人間になれたのだ。
自分がどれほど狭い視野で生きていて、どれほどのねじ曲がったコンプレックスを抱えていたのか。そしてそれは、こんなにも簡単に壊せるものだったのか、とまるで憑き物が落ちるような気分だった。
ただの腰巾着のオレを、いつも海外に連れて行ってくれるオヤジの本当の思いに気付いた時、オレはこの人に一生ついていこうと決めた。
オヤジと出会って二年後には正社員として採用され、オレはオヤジのために、オヤジに報いるためだけにがむしゃらに仕事に打ち込んだ。それが、オレの生きる意味だと思って、迷うことなく突っ走って来た。

そして、今に至る。

人生を謳歌しているかというと、実はそうではないというのが本音だ。相変わらず「生きている」という実感はなかなか得られない。
それでも、オヤジという支えがあったから、オレはここまでやって来られたのだと思う。

そこに来て突然現れた、あの黒髪の少年だ−−戸惑うのも無理はない。

エースは、オレが欲しい物をすべて持っている。
それは、初めて出会った瞬間からわかっていた。だから、一瞬で目を奪われたのだろう。
瞳の奥で揺らめく、命の灯火のような光。そして、ほとばしる生命力、とでもいうのだろうか。
コバルトブルーの海と白い砂浜も、炎に包まれた神殿も、大きな羽根を広げて空を飛び回る青い鳥も。
そこに「彼がいる」というだけで、まるで世界が変わったかのように、色鮮やかに輝き、存在感を増すのだ。

エースにじっと目の奥を覗き込まれた時、ひどくいたたまれない気持ちになった理由もわかっている。だから、目を反らした。
そう、オレは怖いのだ。エースに見透かされてしまったような気がして。

自分が「空っぽ」の人間だということを−−




* * *



その日は山のような書類や資料がメールで届き、オレは部屋から一歩も出ることなくそれらに目を通した。
すでに交渉済みの権利者と交わす契約書のたたき台や事業計画書を細かくチェックしているだけで、一日が終わりそうな量だ。
時間の経過を告げるのは、灰皿を埋めていくタバコの吸い殻と、テーブルの上に並んでいくビール缶、そして窓から差し込む光の色だった。気がつけば、うっすらとオレンジ色を含んだ夕刻の空が、窓の外に広がっているのが見えた。
さやさやと涼しげな音を立てて椰子の木が揺れている。今日は珍しくスコールがなかったせいか、流れてくる風も心地良い。
こんな過ごしやすい日は、散歩がてら外に出かけるのも悪くないだろう。
そう思ってすぐに頭に浮かぶのは、PARTYS BARの看板。
「いや……行く理由がねェだろい」
わざと声に出して、再び書類に視線を落としたその時、部屋の中にノックの音が響き、郵便物が届いた。
その中に、薄っぺらい封筒に入った登記簿を見つけた。中を開けると、あの土地の−−エースたちが住むあのエリアの所有者の名前が書いてあった。
「……ワヤン、アバディ、セラ? チェラ? エクシステンシ……」
素っ気なく並んだアルファベットを、見たまま読んでみた。所有者は男のようだ。
ワヤンと言うのは、この国の言葉で「長男」という意味で、男の名前の頭に付ける判別語のようなもの。大概の男にはこれがついている。名前には法則性などなく、親子で共有する姓もないのだという。そして、この土地の人間は、普段はニックネームで互いを呼び合うというのだから、この文字が並んだだけの名前には何の意味もない。
まァ、これで何も手がかりのない状態から一歩前進はした訳だが。
……赤髪はこの人物を知っているだろうか? いや、知っていてもしらばっくれるのがオチだな。意外とあの女店主の方が詳しいかもしれない。
じっと書類を見つめたままあれこれ考えていると、ふわりと窓から流れてきたのは、あの甘い花の香り。
一瞬で心臓が跳ね上がる。
大きくため息をつき、がしがしと頭をかいてからオレは舌打ちをした。こんなことをしても誤魔化せる訳ではないのに。
まだ姿も見たことがない花は、いつもオレの思考を麻痺させる。危険な香り。
シャツを羽織り、時計を付け、革靴を履くと、気持ちはもう部屋の外へと向かっていた。
理由が出来たことにひどく安心している自分がいる。我ながら理屈っぽいとは思うが、40年近くずっとこうやって生きてきたのだから今さら直しようがない。
でも、本当はわかっている。これはただの衝動なのだと。

「あら、マルコさん……でしたよね? いらっしゃい!」

そして、気がつけばPARTYS BARの扉を開けていた。
女店主のマキノは今日もカラフルな三角巾をつけて笑っている。ぐるりと店内を見渡すと、奥の席には珍しく現地人らしき客がいて、随分と賑やかだ。
「今日は赤髪は?」
「ああ、シャンクスさんなら飲み過ぎて今日は宿から出てこないみたい」
困った人ですね、と大して困った様子もなくマキノはくすくすと笑った。
「まったく……相変わらずだよい」
「日本にいる時もそうでした?」
「少なくとも、一緒に飲みてェとは思わなかったなァ」
「子どもみたいに手がかかりますもんね」
とはいえ、まんざらでもなさそうな笑顔で、マキノはカウンターの中へ入っていった。
「へェ……そういうことかよい」
一人で納得して、オレもカウンターに座ろうとしたその時。

「マルコ!!」

勢いよく店の扉を開けて飛び込んで来たのは、エースだった。
外から一気に流れ込んでくるのは、あの甘い花の香り。
真っ直ぐにオレの前まで駆け寄ると、エースは白い歯を見せてニカッと笑う。後から追いかけて来た鳥のマルコがエースの肩に降り、間抜けな声でグエッと鳴いた。

「マルコ来てくれた。すっげえ嬉しい」

じっと目の奥を覗き込まれると、やはり目を反らしたくなったが、少し目を細めて誤魔化しながら、手を伸ばしてその黒髪を撫でてやった。
エースがオレの目をずっと見ていたいと言ったように、オレもその黒い瞳に惹かれている。だから、ずっと見ていたいと思う。
暗闇の中に揺れる灯火と、そこに映ったオレの姿が重なると、まるで自分がこの少年に命を与えられたような、そんな錯覚を覚えるのだ。
小さく切り取られた黒い瞳の中、オレは確かに「生きている」のだと。

「……ちょっと用があって来ただけだよい」

まったく、ひねくれたおっさんになっちまったなァ、と心の中でつぶやいて、自虐的に笑ってみた。
それでもエースは、そばかすが際だつ頬をきゅっと持ち上げて、嬉しいと言ってくれる。
柔らかい黒髪からは太陽のにおいがする。そして鼻先をくすぐる甘い花の香り。何か欲情にも似た熱いモノが体の中を駆け抜けていくのがわかった。

これは軽い中毒にかかっている証拠だな。

それでも、「ただ会いたいから会いに来た」なんて、オレはこの少年のようにバカ正直には言えないのだ。




NEXT