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解凍 23  

 ...and I Thaw You Out


SANJI × NAMI 



……うぎゃああああああああっっっ!!

階下から床を通ってものすごい声が響いてきた。
「おーおー、あっちも始まったか」
「あいたたたたっ!! いったぁーい! ちょっと! もっと丁寧にやりなさいよ!」
消毒液を含ませたコットンを、ピンセットでつまんでポンポンと私の腕に叩きつけていくウソップ。
足をバタバタさせながら、私は染みこんでくる消毒液の痛みに耐える。遠くに聞こえるサンジ君の叫び声が、私の腕の痛みまで増幅させる。おそらく、ルフィとロビンに押さえつけられて、チョッパーに傷口を縫われているところ。
「ったく、似たもん同士だなあ、お前ら」
呆れ顔のウソップは、コットンをポンポン規則正しい間隔で叩きつけて私の腕を行ったり来たりする。
「うるさいなあ、何がよ……ああっ、痛いったら、もう!」
「やめとけってあれほど言ったのによ……」
「だって……」
「逃げてばっかりのくせに、あいつの気だけは引きたいんだよな、お前は」
そう言ってウソップは荒々しくコットンを叩きつける。
「何よそれ! どういう……いたたっ……ちょっと! 痛いってば! ……逃げてばっかりって何よ?」
「お前の過去の話! まさかオレからあいつに話すことになるなんて思いもしなかったぞ? それにあいつが知らないのにロビンが知ってたってこと、オレだって驚いたぜ」
痛みに耐えながら、私はうつむいた。
「……だって、言えなかったんだもの」
「だからそれだってんだ! 言えないなら気づかせるようなマネすんなって!」
「だって……!」

だって、怖かったの
自分の口からそれを告げるとき、サンジ君がどんな顔をするんだろうとか。核心に近づくにつれてどんな風に表情を変えていくんだろうとか。
すべてを話し終わった後に、どんな目をして私を見るんだろうとか。
そして私に何て言うんだろう、って。
考えると怖くて、怖くて、逃げ出してしまった。

「……あいつはいたって冷静だったぞ。黙って、静かにあの話を聞いていた。あの話よりもあいつがショックだったのは、お前がそれを一番にあいつに話さなかったってことだ。わかるか?」
私は静かにうなづいた。
あのとき、テーブルを蹴り飛ばしてまで怒りを露わにしたサンジ君の、喉から絞り出すような声が蘇る。

―――――オレはナミさんの何なんだよ……

「……お前はずるいぞ? あいつが真っ直ぐにお前に向かってくると、すぐに逃げ出す。逃げ出すけど、追いかけて欲しくてまた気を引く」
「そんなこと……!」
「この腕の傷だって、見せてあいつに何を思わせたかったんだよ? あなたのせいで私は傷ついていますとでも言いたかったのか?」
腕の痛みにも増して、ウソップの言葉は容赦なく私の心に突き刺さった。
「ウソップ、ひどい……! なんであんたにそこまで言われなきゃなんないの?」
「……事のなりゆきを、ロビンから全部聞いたんだ」
ウソップのその言葉で、私は何も言い返せなくなった。
「オレは何も知らなかったから、サンジを責めた。何でお前のそばにいてやらないのかって。お前の過去の話を聞いて逃げ出した最低なヤツだって、罵った。でも……あいつを突き放していたのは、お前の方だったんだな」

……そう
それでもサンジ君は私のそばにいてくれようとした
それなのに、それを偽りの優しさだと思ってしまった
その優しさが怖くてまた、逃げてしまった

「お前は甘え過ぎなんだ、サンジに。あいつが絶対にお前から離れていかないって自信があるから、そんなことができるんだ。突き放して、気を引いて追いかけさせて、また突き放す」
「そんなことないっ! そんなこと……」
でも、それに言い返す言葉を私は何も持ち合わせていなかった。

……そうなのかもしれない
サンジ君が「愛してる」って言ってくれたから、
何度も何度も言ってくれたから、安心していたのかもしれない。
私から「愛してる」って言えるようになるまで待ってくれるって。
なぜ、言えないのか、いずれ気づいてくれるんじゃないかって。
いつか、聞いてくれるんじゃないかって。

……甘えていたんだ

「……最低なのは、私?」
聞いても、ウソップは無言でコットンを叩きつけるだけ。その沈黙と、腕に染み入ってくる痛みが、それを肯定しているということが伝わってきた。うつむいて、震えながら痛みに耐える。
「私は、ただ……」
―――――私は、ただ
「助けて欲しかったの……!」

心の奥にある冷たいモノ、過去のカタマリ。
その温度は次第に低く冷たくなっていって。
サンジ君を好きになればなるほど、強い冷気で足もとにからみついてきた。
「気づいて欲しかったのよ……私が過去に縛りつけられているってことを。気づいて、助けて欲しかったの……!」

心の中でずっと叫んでいた
助けて、って叫んでいたの

カタン、とピンセットをテーブルの上に置く音がした。
「あいつはなあ、助けようとしていたんだ! お前を! 過去から! その手を払いのけたのはお前なんだ!」
ウソップは私を指さして、至近距離で大きな声を出して言った。私は驚いてその指の先を見たまま動けなくなった。
「あいつはあいつなりに……確かにやり方はめちゃくちゃだったかもしれねえけど……真剣にお前を救いたかったことには変わりねえ……」

助けて、って
ずっと言ってたの
サンジ君は気づいてくれていたの?
……じゃあ
タイミングを逃したのは私?
それを台無しにしたのは私?
目の前に差し伸べられていた手に気がつかなかったのは、私だったの?

「過去がお前を縛りつけているんじゃないんだ。お前が過去にしがみついてるんだよ」
「私が……?」
ウソップは使ったコットンを袋に入れながら、うなづいた。
「お前は遠慮してるんだ。お前の母親とか、それ以外にもアーロンの犠牲になってきた人たちに。自分ひとりが幸せになってはいけないって、心のどこかで思ってるんだ。それをすべて『過去』のせいにしてるんだ」
ウソップのその言葉に、愕然とした。
「そんなこと……考えたこともなかった……」
遠慮している? ベルメールさんに? 村の人たちに?
「なんつーか……幸せになることは、忘れてしまうことだと思ってるんだろうな」
「忘れてしまう?」
「……多分な」
「意味がわからない……」
怪訝そうにウソップの顔を覗き込むと、ウソップは手をパンパンッと叩いて「終わった!」と言った。
「まあ、オレも言い過ぎたな……悪い。でも、間違ったことは言ってねえと思う。だから、あとは自分で考えろ」
そう言ってウソップは真新しい包帯を取り出した。
「自分で考えろ、って……」

遠慮ってなに?
……忘れてしまうって、どういうこと?

 

両腕に包帯をぐるぐる巻きにされてぎくしゃくしながら甲板に出ると、チョッパーが海を見ながら手すりに座っていた。
「チョッパー、サンジ君は?」
「今は行かない方がいいぞ。泡ふいて気絶してる」
一瞬、それを想像して、私は吹き出してしまった。
「そういえば、ドラムでも白目むいて気絶してたっけ……」
くすくすと笑っている私を、チョッパーは安心そうに見ていた。
「ナミの腕も大丈夫か?」
「ええ、大丈夫よ。ウソップの治療はかーなーり手荒かったけどね!」
そう言って舌を出して笑うと、チョッパーもエッエッ、と不思議な笑い方をした。
海風がそよそよと流れてきて、私の額をくすぐった。チョッパーの隣に同じようにして座って、しばらくの間穏やかな海を眺めていた。
「……ねえ、チョッパー」
「何だ?」
「ドクター・ヒルルクのこと、今でも思い出す?」
私がそう聞くと、チョッパーの表情は明るくなった。
「おう! 毎日ドクターのこと、思い出してるぞ! オレが海に出て経験したこと、伝えてるんだ」
「伝えるって?」
チョッパーがモコモコした手を上に向けると、そこには真っ青な空に、細い雲が幾重にも重なって流れていく。
「……空?」
「星だ」
「……星?」
「そうだ! ドクターは星になったんだって、ドクトリーヌが言ってた! だから、オレ、星の見える日にはいつもドクターに話しかけてる。ドラムじゃ雪ばっかりで全然星が見えなかったけど、海の上ではたくさん見えるんだな!」
「へえ……ドクトリーヌも素敵なこと、言うじゃない?」
目を輝かせて、少し興奮しながら話すチョッパーの顔を覗き込むと、チョッパーは少し驚いて後ろにのけぞった。そのせいで、バランスを崩し、チョッパーはわたわたしながら甲板に落ちた。
「痛ってえなー! びっくりするだろっ!」
「ははは……あんたが勝手に落ちたんじゃない」
むくり、と起きあがって、またチョッパーは手すりに飛び乗った。
「……ねえ、チョッパー」
「なんだよっ!」
チョッパーはまだ少し怒っていた。
「……あんたは、ドクターのことを思い出すの、もう辛くないの? だってあんたは……」
チョッパーは心に傷を持っているって、ドクトリーヌが言ってた。
チョッパーの過去と、その心の傷は簡単には癒せないんだって。
私の言いたいことがわかったらしく、チョッパーは帽子を深くかぶり直してからじっと海を見つめた
「オレは、ドクターの桜を見たから、もうオレの心の病気は治ってるんだ。ナミだって見ただろ?」
「うん、見たわ。本当にきれいな桜だったわね」

雪をピンクに染めて、空いっぱいに広がっていたドクター・ヒルルクの桜。
あのピンク色の雪が、すべてを温かく包み込んでいた。
あのとき、サンジ君を見て赤くなった私の頬も、ピンク色の雪が隠してくれたんだっけ。

「じゃあナミの病気だって治ってるはずだぞ」
「病気?」
「思い出したくない過去があるって、言ってなかったか?」
「……言ったわ。よく覚えてるのね」
「じゃあ、治ってるさ! だってドクターの桜を見たんだぞ?」
自信満々にチョッパーは言った。私はため息をついてから笑った。
「……あんたは強いわ、チョッパー」
そう言うと、ほんの少しだけ寂しげな顔をしてチョッパーはうつむいた。
「だって、悲しんでいたってドクターは帰ってこないし。それなら、毎日楽しく過ごしている方が、ドクターだって喜んでくれるはずだから」
「喜んでくれる? そんな風に思えるの?」
きょとん、としてチョッパーが私を見ていた。
「……そうだぞ? 何でだ?」
「楽しい日々があって、充実した時間が流れたら……ドクターのこと、忘れたり、しない?」
「忘れるもんか!」
間髪入れずにチョッパーが言い返す。
「どんなことがあったって、オレがドクターのこと、忘れるわけ、ないんだ! ドクターが見ててくれるって思うから、オレ、がんばれるんだ!」
「見ててくれる?」
「そうだぞ! 星になって、いつも見ててくれるんだ!」
こんな風に純粋に何でも信じることのできるチョッパーを、心からうらやましいと思った
そういえば、ビビにサンジ君が魔法使いなんだって言われて信じてたくらいだものね
「……ベルメールさんも、星になって私を見ていてくれるのかなあ……」
「ベルメールって誰だ?」
「ん? 私の母親よ。ずっと昔に死んでしまったけどね」
「そうか……じゃあ、きっとナミの母親だって見ててくれるぞ!」

青い空を睨むように見つめながら、思ってた。
ベルメールさんに、ごめんなさいって。
こんな娘でごめんなさいって謝ってた。
でも、カラダがどんなに汚れても 、心だけは真っ白なままでいようと
あの空に向かって誓った。
私を見てて、そこからずっと見ていて、って。
そう思いながら、苦痛の時間を耐えていた。
それがベルメールさんに届いたから、私は自由になれたのかしら?
「そうね……多分ずっと見てたんだわ」
「そうだぞ! いつも見てるんだ!」
「じゃあ……私が幸せになったら、ベルメールさんも喜んでくれるのかな?」
「おう、当たり前だっ!」
嬉しそうにチョッパーが答える。
「幸せに……なっていいのかな? どんな過去があっても、幸せになる権利はみんなに平等にあるのかな?」
思わずそうつぶやいた。
「何言ってんだ、ナミ!」
チョッパーがぴょん、と手すりから飛び降りて、私を見上げた。
「過去を消すことはできないから、これからの未来を積み上げていくんだって言ったのは、ナミだぞ!」
「あ……」
そう言われて、やっと思い出した。
ほとんどドクトリーヌの受けうりだったけど、チョッパーに偉そうに言ったんだっけ

―――――死んだ人間は帰ってこないさ。でも、生きる理由はこれから見つけるんだよ。過去の記憶は消せなくても、これからの未来の出来事で塗り替えていけばいいのさ

……生きる理由
―――――生きなきゃいけねェ”理由”があんだよ
あの窮地でゾロが言った言葉

……そうね
もう、とっくに生きる理由は見つけているんだった
生きる理由、生きていたい理由
生きて、かなえたい夢がある
世界地図を書くという夢
未来だってすぐそこにある
大切な仲間との航海
そして、生きて、見つめていたい人がいる
一緒に、これからの時間を過ごしたい人がいる
なのに、動けなかったのは
ただ、勇気がなかったから

―――――お前の中ではすでに始まっているよ。後は、それを認めて直視することだね

気持ちはもう、未来に向かって歩き始めていた。
ただ、怖かったのは―――――
自分の幸せは、あまりにもたくさんの犠牲の上に成り立つということ。
流されたたくさんの血と涙を、記憶の彼方に追いやって、自分だけが温かい場所で安らぎを得てはいけないんだと、それを忘れるようなことがあってはいけないんだと、知らずとカラダが引き止めていたのかもしれない。
幸せになるのは忘れることだと思ってる、って。
ウソップが言ってたのは、このことだったの?
私がしがみついていた過去は、これだったの?

「だって言ったじゃないか、過去あってこその今の自分なんだって」
そのチョッパーの声で、いろんな思いが一気に溢れ出した。

……私のせいでベルメールさんが死んで
たくさんの村人たちも殺されて
暗い部屋で海図を書かされて
泥棒になって
魚人に犯されて
アーロンに犯されて
ルフィとゾロに出会って
ウソップに出会って
サンジ君に出会って
そして助けてもらって
ビビとカルーに出会って
チョッパーに出会って
ロビンに出会って

……それから?

サンジ君を好きになって
サンジ君が私を好きになってくれて
抱き合ってキスをして
愛してるって言ってくれて
でも、言えなくて
傷つけて
何度も何度も傷つけて
失いそうになってやっと
失いたくないんだって気づいた

そして今の私がいる。
このどれひとつ欠けてもダメなんだ。
いろんな人の出会いと、いろんな思いが絡み合って、時間が流れて一本の糸になって、今の私に繋がっている?
「ナミも過去と向き合わなきゃいけないんだ、きっと」
後ろから私を見上げるチョッパーの方へ顔を向けることができず、足元で船体に当たってはじける水しぶきを見ながら私はつぶやいた。
「過去と向き合ったら……いつか笑ってすべて話せるようになるかな……?」
背後から静かなチョッパーの声が聞こえてきた。
「オレは精神科医じゃないけど、何かの本で読んだぞ。過去の辛い経験を克服するには、荒療治だけど過去と同じ体験をすればいいんだって。そして、過去よりもずっと良い結果にするんだって」
「過去と同じ体験……?」
「オレ……またワポルが現れて、イヤでも自分の過去と向き合わなきゃならなくて。でも、絶対に前みたいに何もできずに逃げ出すなんてことはしたくなかったんだ。だから、戦ったんだ。ルフィがオレのことを仲間だって言ってくれて、ドクターの旗を守ってくれて、それでアイツを倒してくれたから、多分オレの中にあったドクターの辛い思い出を克服できたんだ……うん、そうなんだ!」
チョッパーはそれを言葉にして、改めて自分自身で納得したようだった。
ようやく振り返ってチョッパーを見ると、チョッパーは静かにうなづいてから私を見上げた。
「オレの中では……ずっと心に詰まっていた後悔とか、そういう気持ちが今はあったかいモノに変わっているような気がするんだ。 だから、昔のことを思い出しても、ドクターとの楽しい時間だけが蘇ってくるんだ」
「……そんなに変われるものなの?」
そんな風に、過去は乗り越えていけるものなの?
「あんたみたいな強さ、私にはないわ」
「だって!」
私の言葉を遮るように、チョッパーが声を荒げて言った。
「だって、見ただろ? ドクターの桜に治せない病気なんてないんだ!」
チョッパーは、その言葉を確かめるように、ひとつずつ、ゆっくりと言い直した。
「治せない、病気なんて、ないんだ!」

部屋に戻る前に、ベッドで静かに眠っているサンジ君のそばに行って、その手を取って頬に当てた。熱はもう下がっているけど、熱い手をしている。
「過去と向き合う……か」
……できるかな? 私に。
でも、そうしなきゃ変われない。
だって、逃げていたって時間は前に進むって、ドクトリーヌが言ってた。
不思議と口元に笑みが浮かんでいた。
「あ……そうだ」
思い出したようにサンジ君の顔を覗きこんだ。
―――――サンジ君が早くよくなりますように
そう願いながら。
「おやすみ、サンジ君……愛してる」
そう言って、そっとサンジ君の唇にキスをした。
チョッパーの話を聞いたら、こんな「魔法」も効果があるような気がして。
魔法とか、奇跡とか、今なら何でも信じられそう。
少し笑いながら、そっとサンジ君の手をベッドの上に戻した。
部屋の扉を閉める前に、もう一度眠っているサンジ君に向かって心の中で語りかけた。

ねえ、サンジ君?
私はもう、逃げたりしないから
だから包帯が取れたら、一番に私を見つけて
そして私を、抱きしめに来て
過去と向き合う私を
一番近くで見ていて欲しいの

 

* * * 

 

目を覚ましても、そこにはまだ暗闇があった

「……また包帯かよ。いい加減外してくれ」
思わずつぶやいた。するとそれに答えるように、すぐそばでカシャリと固いものが擦れ合う音が聞こえた
「まァ、オレからはいい眺めだけどな」
―――――ゾロの声。
「……もう朝か? それともまだ夜なのか?」
「今は真夜中だ」
「……ウソだろ?」
「なにィ? てめェにウソついてどーすんだ」
「おめーが真夜中に起きてるわけねえだろ」
「うるせェな! 看病してやってんだ、感謝しろってんだ」
笑うと少し頭痛がした。
「……食事はどうしてんだ?」
「あァ。昨日からここに停泊してんだ。メシは町に食いに行ってる」
「……そうか……悪りィな」
しばしの沈黙の後、ゾロがフッと笑うのが聞こえた。
「……やけに素直じゃねェか」
「うるせ」
メシ作らなきゃ、オレがこの船に乗っている意味がねえだろ? って、そう言おうと思ったが、どうせゾロのことだ、それでも意味がねえとか言いそうだったから、オレは口をつぐんでおいた。
「まァ、確かにこの数日間で、コックのありがたみはよーくわかったぜ」
「はっ……おめーもずいぶんと素直じゃねーか」
「ケッ! オレはコックのありがたみって言っただけで、別にてめェのありがたみだなんて言ってねェぞ?」
「あぁ? 何がどう違うんだ?」
「違うも違う。天と地ほどの差があるぜ」
「あんだと? このクソ剣士」
「やめとけクソコック。その格好で凄んでも虚しいぜ?」
「チッ……覚えとけ」
「いや、忘れる」
「忘れんなっ!」
手足をバタバタさせてみても、何にも触れることはなく、虚しい風だけが起こった。
「もう忘れた」
「てめえ……」
キィ、とドアの軋む音がした。
「おう、ナミ」
「ナミさん!?」
オレの声に何の返事もなかった。
「ナミさん? ナミさん?」
何度呼んでも沈黙だけが返ってくる。
クックック、と笑う声が次第に大きくなってきて、ゾロはとどめの一言をくれやがった。
「ドアを開けたのはオレだ。ナミなんていねェよ、バカ。……元気みてェだから、オレはもう行くぞ」
「こんの〜っ……! 待てっ! クソマリモッ!!」
勢いよく起きあがったときには、バタン、とドアの閉まる音が響いて、再びあたりは静寂に包まれた。
「チクショウ……ぜってー許さねえ、あのクソ剣士……」
包帯が取れたら、まず最初の一撃は絶対にゾロにくれてやる。
「ナミさーん……」
肩を落として、情けねえ声で呼んでみる。いるわけねえのに。やっぱ、何も見えねえと不安になるんだな。
「ごめんなさいね、コックさん。航海士さんじゃなくって」
その声の聞こえる方向がわからず、思わずオレは上を向いた。
「ロビンちゃん……いたんだ?」
「今来たところよ。剣士さんがドアを開けてくれたの」
ロビンちゃんの声は、やけに存在感があるのに、その気配は夜の静寂と同じくらいに無に近かった。まるでオレが作り出した架空の存在のように、ロビンちゃんの声だけがそこに漂っている。
これはもうすでに夢かもしれない。そう思うと、不思議な安堵に包まれて、自然とオレの口からは言葉が流れ出した。
「なあ、ロビンちゃん」
「何かしら?」
「条件……ロビンちゃんの条件を守れなくて、ごめん」
「あら。守るつもりなんてあったの?」
くすくすと笑う声がする。
「まさか、最初から無理だってわかっててあんな条件出したの?」
「そうじゃないわ。ただ、あのときすでにあなたは……」
「壊れ始めていた?」
「……ええ」
申し訳なさそうにそれを肯定するロビンちゃんの声は、静かな部屋の中に低く響いた。
「……オレもわかってたよ」

あのとき、オレの中に生まれた得体の知れない感情。
そいつがいずれオレを蝕んでいくことはわかっていた。
「でも、止められなかったんだ」
「……わかってたわ」
コツコツと、ロビンちゃんの足音が近づいてきた。それ以外は全く気配を感じさせない。これは長い間裏の世界で生きてきた彼女が身につけた処世術なんだろうか。気がつけば、ロビンちゃんの手によってオレの体は横たえられていた。
「オレは……ナミさんを愛してるって気持ちさえあれば、何だってできると思ってた」
「何だって?」
「ああ……ナミさんの過去なんてオレが簡単に消してしまえると思ってた」

ナミさんを抱いてしまえば、きっと過去のつらい記憶なんて消し去ってしまえると思っていた。

「でも、結局あなた自身が彼女の過去に飲み込まれて、自分を見失って、彼女の心の傷を広げる結果となった?」
「ハハ……きっついなあ、ロビンちゃん……でもその通りだ。オレは取り返しのつかない過ちを犯してしまった」

いやがるナミさんを無理矢理押さえつけて、抱こうとした。
いや、犯そうとしたのも同然。
”あいつら”がナミさんにしてきたことと同じだ。
そしてナミさんのカラダを「汚れている」と、
自分でも思いもしなかった言葉が口から飛び出した。
そんなこと一度だって思ったことなかった。
でも、その言葉が出てきたということは、
心のどこかでそう思っていたってことだ。
―――――オレの本音
たった一言ですべてをぶち壊すほどの醜い本音。
後悔して後悔して、今でもまだ後悔している。
何度も謝ろうと思った。
でも、何も言葉が見つからなくて、
何も言えない自分にまた腹が立って。

「……だから自分を痛めつけて、それを償おうとしたのね」
「そうかもしれない」
「……やっぱりあなたたちは似てるわ。何かに罪の意識を感じているから、自分を傷つけることで赦しを得たいのね」
「ゆるし?」
「多分ね……失ったものへの懺悔なのかしら?」

失ったもの、罪の意識

「あなたは過去に、何を失ってきたのかしら」
「……オレ?」

オレの過去。オレが失ったもの。オレの罪。
オレにとってそれはきっと、

……クソジジイの足だ

あの嵐でオレは
ジジイから足だけでなく、海賊としての未来も奪ってしまった。
だから、それを償うためなら命を捨てても構わないと思ってた。
だがオレは海に出た。
自分の夢を叶えるために。
それは、オレが犯した罪への「赦し」を得たと思っていいんだろうか。

「くっ……ごめん……ロビンちゃん……」

包帯が濡れていく
オレの涙で濡れていく
それは流れずに目の前に滞って
その存在をオレに知らしめる

この涙は何だ?

「なんで……オレ泣いてんだろ?」
「……浄化」
ロビンちゃんの声が随分と遠くで聞こえた。
「……じょうか?」

それを決して忘れるな
でもそれを足かせにしてはいけない
そんな声が聞こえたような気がした。

何を?

……「過去」か。

過去はカタチを変えていく
固くて冷たいモノから柔らかくて温かいモノへと変化していく

……溶け出している? 過去の”カタマリ”が

それが、この涙?

……ああ、ナミさん
オレは今なら言える
本当に心から言えるよ
ナミさんのすべてを受け入れて
過去の君も未来の君も
そしてそれを繋ぐ今の君を

……愛してる

オレはずっと君のそばにいる
もうひとりにはしない
オレが温めてあげるから
オレの体温で
君の過去がもたらす孤独も、悲しみも、恐怖も
ひとつひとつ
溶かしていってあげるから
だから、
オレの腕の中でなら
どれだけでも泣いていいよ
そのためにオレがいる
そのために、いるんだ

「ロビンちゃん……ナミさんを呼んできてくれないか?」
「でも、今はまだ真夜中よ? 航海士さんも疲れて眠ってるわ」
「今すぐ会いたいんだ」
濡れて重くなった包帯に手をかけて、無理矢理引き下ろそうとした。
「ダメならオレから会いに行く……眠っててもいいさ、顔を見るだけでいいんだ」
しかし、オレの手をしっかりとくい止めるロビンちゃんの手。必死で抵抗しても、無数の手にはかなわなかった。
「もう焦る必要はないのよ?」
「でも、確かめたいんだ……!」
この気持ちを
ナミさんに対するオレの気持ちを
しっかりと確かめたいんだ
ロビンちゃんの手はオレの体をベッドに押さえつけて離さない。
「頼む、ロビンちゃん……!」
「大丈夫、彼女は逃げないわ」

今まで怖かったのは、
目を閉じたらいなくなってしまうんじゃないかってこと。
手を放したら消えてしまうんじゃないかってこと。
だから、一秒でも早くそばにいって、
一秒でも長くそばにいたかった。

「……逃げない?」
「ええ、彼女は逃げないわ。ちゃんとあなたのところへ戻ってくる」
「何でそんなにはっきりと言い切れるんだい?」
少し怒りながら聞き返すオレに、ロビンちゃんは穏やかな声で答えた。
「……もう逃げる理由がないからよ」
その言葉には妙に説得力があって、オレの体は脱力してロビンちゃんの手に押さえられるままにベッドに沈んだ。
「……ねえコックさん」
「ん?」
「ひとつ、あなたに教えてあげたいことがあるわ」
とても心地よい安堵の中、ロビンちゃんの声はしっかりと気配をともなって耳元に届いた。

「……なにを……?」

* * *

 

朝を待ちきれずに包帯を外すと、窓の外の色が薄いグレーを含んだ青に変わりつつあった。
のろのろとキッチンへ向かい、ささやかながら朝食の準備を済ませた。
船首に立つと、穏やかな海と空のまっすぐな境界線が朝のヒカリでうっすらと白くなっていた。
久々のタバコをくわえて火を点けると、煙は風に乗ってヒカリに向かっていく。
「さて、と……」
タバコを海に捨てて、歩き出す。階段を下りて、倉庫のドアを開ける。ベッドのそばにははぎ取られた包帯がくしゃくしゃになって落ちていた。
女部屋の扉を見下ろして立つ。
早くナミさんに会いたい
扉に手をかける。
でも、今部屋にはロビンちゃんもいる。それに、よく考えたら、きっとこの扉には今鍵がかけられている。
ふう、と大きく息を吐いてまたタバコに火を点ける。

ここで待っていよう
ナミさんが起きてこの扉を開けたら、すぐにオレが見えるように
扉を開けて出てきたら、すぐに抱きしめられるように
ここで待っていよう

タバコを持つ手に、何か不思議な感触がして、オレはバスルームに入って鏡を見た。
「うわっ、ひでぇ顔……」
髭が伸びきったオレの顔は、みすぼらしくて、頬が少しこけたせいもあって、まるで別人のようだった。
「さすがにこんな顔じゃ、ナミさんに会えねえよ……」
そうつぶやいて、ひげ剃りを手に取った。

 

ふと目覚めると、辺りは静寂に包まれていて、ソファではロビンが静かに眠っていた。
「もう、朝……?」
ベッドから下りて、服を着替えた。髪を整えて、鏡の中で少し笑ってみた。
……ちゃんと笑えるかな
次にサンジ君に会ったとき、泣き出したりしないかな

甲板で少し風を浴びようと、部屋の扉を開けた。すると、目に入ったのは、空っぽのベッドとそのすぐ側に落ちている包帯。
「……サンジ君?」
声にもならない声でつぶやいた。
頭の中が真っ白になって、何が何だかわからないまま、転びそうになりながら階段を上り、キッチンに向かった。
「サンジ君っ!!」
勢いよく扉を開けると、テーブルにはすでにお皿が並べられ、籠にはパンが盛られ、そしてコンロの鍋からは温かいスープの匂いが流れてきていた。
いつもと変わらない朝のキッチン。
ただそこに、サンジ君の姿だけなかった。

 

「よし、完璧」
少しだけ残したあご髭を撫でて、鏡の中の自分にうなづいた。
バスルームを出て、ふと見やると、女部屋の扉が開いていた。
「……ナミさん?」
ためらいなく部屋の階段を下りると、そこには眠っているロビンちゃんの姿だけ。ナミさんのベッドはすでに空っぽだった。
急いでキッチンを目指す。体が思うように動かず、ふらふらとなりながらも精一杯階段をかけ上がった。
「ナミさん!?」
扉を開けるとそこには、さっきオレが最後に出たときと何一つ変わらないままのキッチン。

男部屋の扉を開けて、叫んだ。
「サンジ君? サンジ君いる?」
まだ熟睡中のルフィたちは、私の声をかき消すほどに大きないびきをかいていた。
「サンジ君! いないの?」
呼びかけても返ってくるのは荒々しいびきだけ。ため息をひとつついて、扉を閉めた。
次に目に入ったのは、格納庫の扉。
「まさかこんなところには……」
そう思いながらも、扉を開けて中に入った。
「いない……いるわけないか……」
しばらくその場に立ちつくした。

タバコをくわえながら男部屋の扉を開けると、中からはヤローどものいびきが響き渡っていた。
「ったく……相変わらずうるせえ部屋だな」
そう思いながらも、何故か懐かしく感じた。
部屋に入って、ひととおり見渡す。当たり前だが、ナミさんはいない。
部屋に来たついでに着替えることにした。濡らしたタオルで体を拭いてから、新しいシャツを着た。

格納庫を出ると、サンジ君のタバコの匂いがして、思わずマストを見上げた。
「まさか……見張り台?」
いそいでマストを登り始めた。一段一段、しっかりと登っていく。
サンジ君がいる。この上にいるはず。
会ったら最初になんて言えばいいんだろう。
少しずつ高まっていく心臓の音。
でも、期待とはうらはらに、見張り台には誰もいなかった。
「なんで……?」
脱力して座り込むと、床はすっかり冷え切っていた。
膝に顔をうずめてつぶやく。
「どこに行ったのよぉ……」
こんな狭い船の中なのに、なんで会えないの?
「サンジ君……会いたいよ……!」

男部屋の扉を開けて、階段を上っていくにつれて見えてくる船首。階段の半分のところで、船首に誰もいないことがわかると、オレは体を翻してまた階段を下りた。
次に目に入ったのは格納庫。
「まさかな……」
そう思いながらも、扉を開けて中に入った。
「いねえ……こんなところにいるわけねえよな……」
すぐに格納庫を出て、マストにもたれて座り込んだ。新しいタバコに火を点ける。
「ナミさん……どこにいんだよ……」
こんな狭い船の中なのに、なんで会えねえんだ?
「ナミさん……会いてえよ……!」
不安だよ
またオレから逃げてんじゃねえの?

―――――彼女は逃げないわ。ちゃんとあなたのところへ戻ってくる

ロビンちゃんの言葉を思い出した。オレのところへ”戻って”くる?
オレが探さなくても、ナミさんはちゃんとオレのところへ戻ってくる?
……それなら待とう
ナミさんが来るまで、動かずに待ち続けよう

どこで?

そう自分に問いかけたとき、すでに足はその場所に向かって動き出していた。
カラダはもうわかっていた。

「……あそこしかねえだろ」

海を見ると、水平線を割くように明るいヒカリが漏れだして、朝の到来を告げていた。
まぶしさに一瞬目を細める。そのとき思い出したのは、アラバスタで見た大きな夕陽。

たどり着くところはひとつ
あのとき、夕陽を追いかけて行った先にサンジ君がいたように、
今度もきっと、私が向かう場所にはサンジ君がいるはず。
だって、私がたどり着く人は、
サンジ君以外の誰でもないんだから。
もう、探さなくてもいいんだ。
私がそこだと信じて向かった先に必ず、サンジ君がいる。

ゆっくりと滲み出す朝のヒカリを浴びて、目を閉じる。
そして再び目を開けたとき、カラダはもう動き始めていた。

「……あそこしか、ない」

もう焦らなくてもいい。そう言い聞かせながらゆっくりとマストを下りていく。
でもやっぱり、気持ちは先に先に進んで、その場所へ向かっている。
マストを下りて、見上げると、朝陽に照らされたみかんが色鮮やかに浮き上がって見えた。

葉は風に揺られてざわざわと音を立てている。
深呼吸をして、一段ずつ階段を上がっていく。
このみかん畑から始まっている―――――

あのとき、過去の恐怖が蘇って初めて、サンジ君のことが好きだって確信した。
でも、怖くて逃げ出してしまった、苦しい思いの始まり。
サンジ君の手を取って「好き」って伝えたのもここだった。
サンジ君は両手を広げて優しく私を抱きしめてくれた。
そして初めてのキスをした。
嬉しさと不安だらけの思いの始まり。
だから今度は、今度こそは。
絶対に揺るぐことのない思いをここで確かめたい。
サンジ君と一緒に始めたいの。

甘いココナッツの香りが風に乗って流れてきた。
カラダが震えた。
あと数段、この階段を上ればそこに……サンジ君がいる!
一段、また一段。近づくに連れて強くなっていく朝のヒカリ。
最後の一段を登り終えたとき、目に入ってきたのは、
海を乱反射させながら輝く、大きな朝陽。
真新しいヒカリですべてを白く染めていく、汚れなき太陽。
その中に、飲み込まれそうなひとつの影。
見慣れたはずの後ろ姿。
風に揺れる髪と、流れてくる懐かしい香り。

「……サンジ君……!」

ちゃんとたどり着けたよ?
ここに戻ってこられたよ?
サンジ君のいる場所に
戻ってきたよ?

静かに振り返ったその影からは、懐かしいあのココナッツの香りがする。
逆光で表情はまったく見えなかったけど、サンジ君は穏やかに笑っているような気がした。
「……久しぶり、ナミさん」
聞こえてきた声と、両手をポケットに入れたまま立っているその影は、確かにサンジ君だった。
「会いたかったよ」
「うん……私も……会いたかった……!」
うまく言葉にできずに、必死でうなづいてみせた。サンジ君は逆光から抜け出してみかんの木の前に立った。
ようやくはっきりと見えたサンジ君は、頭にまだ包帯が巻かれていて、頬が少しこけていた。
それが私が彼を苦しめてきた時間を表しているようで、胸をぎゅっと掴まれるように苦しかった。
「……ごめんなさい……!」
サンジ君は微笑んだまま「何が?」と優しく聞き返した。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!!」
目をぎゅっと閉じて、両手を握りしめて叫んだ。
「はは……だから何を?」
それでもサンジ君は笑っていた。
「言えなかったのは……」
「ん?」

過去のことが言えなかったのは……
そう言いかけて、もう一度手を強く握って顔を上げた。

今、言わなきゃ
ここで、ちゃんと言わなきゃ
ちゃんと過去と向き合って
それにしがみついて逃げてばかりいる自分にケリをつけなきゃ

サンジ君の目を真っ直ぐに見つめて、私は震える唇で話し始めた。
「私ね……どんなことをしてでも村を救いたかったの。これ以上人を死なせたくなかった……私の母親のベルメールさんのように……」
「ナミさん……言わなくていいよ? オレ、知ってるから」
サンジ君の声を振り切るようにして私は続けた。
「1億ベリーで村を買う。これが私とアーロンの交わした契約。だから私は泥棒を始めた。……順調だったわ、ちょっと失敗もあったけどね」
そう言って肩をすくめて笑ってみせた。サンジ君は黙って私を見ていた。
「でも……それでも1億ベリー貯めるには時間がかかりすぎて、奉具を納められない村人は殺されていったわ。……だから……だから私は彼らにカラダを売った」
最後の方の声はかすれてほとんど音にならなかった。私は大きく息を吸って勢いをつけた。
「奉具を払えなかった人の分、私がカラダで払っていたの。アーロンには言わないって条件で、魚人たちは私のカラダを……」
「ナミさん、もういいから……!」
サンジ君が止めようとしても、私は首を大きく横に振った。
「でも、アーロンもバカじゃなかった。そんなこととっくにわかっていながら、知らないフリをしていただけ。私が窮地に追い込まれるまで、高みの見物をしていたってわけ……バカでしょ? アイツの手の中にいるのにも気づかないで、私は村を救っているつもりでいた」
サンジ君はもう何も言わなかった。
「同じ条件をアーロンから突きつけられたとき、ものすごく後悔した。バカなことをした、って自分を責めた。でも、もう遅かった……私はアーロンに……ううっ……!」
また吐き気がした。口を押さえて必死で耐えた。それでもサンジ君は歯をくいしばったまま黙っていた。

わかってくれてるよね? サンジ君。
今ここで話さなきゃ私は変われないんだって。
わかってくれてるんだよね?

……ありがとう

一番近くで見ていてくれるよね?
私が過去と向き合う姿を
そこで見ていてくれる?

「……私は、私はアーロンに犯されていた……。何度も、何度もあの鋭い歯で噛みつかれて血まみれにされた……! おぞましかった……死んでしまいたいって思った……自分の母親を殺した男に……。でも、生き抜かなきゃ村は救えない。私が逃げるわけにはいかなかったの」
サンジ君は少しうつむき加減で黙って聞いてくれていた。
「ふっきるのは簡単だったわ。目をぎゅっと閉じて、口を押さえて痛みに耐えていればいいだけだもの……。こんな苦痛の時間も、1億ベリーさえ貯めれば終わるんだって、自分に言い聞かせてた」
「……でも、その1億ベリーの契約も、アイツはハナっから守るつもりなんてなかった」
突然そう言われて、私は驚いてサンジ君の顔を見た。サンジ君はまっすぐな目で私を見ていた。
「……もし、あそこでオレたちが来なかったら……ルフィがアイツを倒さなかったら、ナミさんはずっとそうやってアイツの言いなりになっていたのかい?」
私は静かに首を振った。
「わからない……わからないけど、多分村を守る一番の方法がそれなら、そうしていたと思う。少なくとも、村を救うことができるなら、私はどんなことにでも耐える覚悟があったから」
「そう……」
そしてまたサンジ君は黙り込んだ。
「でも、ルフィとゾロとウソップとサンジ君と。たった4人で私たちを救ってくれた。だから私は自由になって……そしてサンジ君を好きになったの」
じっとサンジ君の目を見つめると、サンジ君は穏やかな表情のままタバコをくわえて次の言葉を待っていた。
「好きになればなるほど、過去のことが私の中で膨らんできて、ダメだって言った。好きになっちゃいけないって……お前のその過去を知って、それでも愛してくれるヤツなんていないんだって声が聞こえてくるの。アーロンの声でそう言うの……!」
もう、サンジ君の顔を見ることはできなかった。ひたすら言葉だけを繋いでいく。
「私のカラダは汚れてる……サンジ君の言ったとおり」
「ナミさんそれは……!」
とっさに声を出したサンジ君を制止して、私は続けた。
「ううん、汚れてるわ。それは本当のこと。だからサンジ君に求められたときに、怖くなって逃げ出した。何度もサンジ君の気持ちを踏みにじった。サンジ君の気持ちがあまりにも真っ直ぐだから、それに応えられる自信がなかった……嫌われるのが怖かった……サンジ君を失うのが怖かったの……!」
一瞬の沈黙の後に、サンジ君が言った。
「……知らなくてもいいことがあるって言ったのはナミさんだ。でも、そう言ったってことは、オレに知って欲しかったから……違う?」
私は静かにうなづいた。
「自分で話す勇気もないのに、知って欲しかった。……サンジ君の本当の気持ちを確かめたかった」
「本当の気持ち?」
サンジ君の目をまっすぐに見つめて、私は大きく息を吸った。手がまた震え始めていた。
「こんな過去があっても、サンジ君は私を好きでいてくれる?」
サンジ君は目を細めて私を見た。私の心の奥を見るように。

サンジ君
逃げてばっかりでごめんね
もう、逃げたりしないから
だから聞きたいの
ずっと聞きたかったの

「それでも、私を愛してくれる?」
泣かないように、泣かないように手を握りしめたけど
目には涙が溜まってきて、少しずつ視界がぼやけていった。
サンジ君の姿が見えなくなる前に、もう一度、しっかりと声に出した。

「……愛して、くれますか?」

風が吹いて、みかんの木がざわめいた
葉擦れの音に包まれて、私とサンジ君は随分と長い間見つめ合っていた。
タバコをくわえて立ったまま、サンジ君は何も言わなかった。その沈黙の長さが、私を不安にさせた。
お願いサンジ君、何か言って?
強い風が吹いて、ザアッと音を立てながら私たちの間を通り抜けた。
ふっと笑って、サンジ君は体を少し曲げてうつむいた。タバコの煙がゆらりと揺れてサンジ君を包み込むように漂っていた。
「……ずるいよ、ナミさん」
「……え?」
体を起こしてけだるそうに笑ってサンジ君が言う。
「そうやっていつもオレにばっかり言わせて、自分は何も言わねえの、ずるいよ。オレはナミさんのどんな過去だって受け入れられるって言ったはずだよ? オレの気持ちは何があっても変わらないって……変わんねえ自信があるって、言ったじゃねえか」

―――――オレを信じて……愛してるから

そう言ったサンジ君の言葉を思い出した。あのとき、それでも話すことができなかったのは、サンジ君を信じることができなかったわけじゃないのに。でも、それがどれほどサンジ君を傷つけていたのか、そのときはわからなかった。
「……ごめんなさい」
素直になれなくて、ごめんなさい
信じることができなくて、ごめんなさい
上手に愛せなくて、ごめんなさい

出てくる言葉はごめんなさいばかり。サンジ君を困らせてばかりで、傷つけてばかりで、それでもまだ期待してた。そんな自分がイヤで、イヤでたまらない。
「もう……イヤなんだ」
驚いて顔を上げると、サンジ君は悲しそうに笑って私を見ていた。
「今……何て言ったの?」
唇が震えているのがわかった。
……イヤって言った? もうイヤだって……。
サンジ君をじっと見つめて次の言葉を待った。心臓が速く脈打ち始めた。
「……もう、イヤなんだ。ナミさんの気持ちが見えないまま、不安で不安でどうしようもない自分が、イヤなんだ」

いつの間にか、葉擦れの音は止まっていた。

「ナミさんをオレだけのものにしたくて、ルフィやゾロや、他の誰にでも……ロビンちゃんにすら嫉妬して、オレの知らないことがひとつでもあると腹が立って……自分は何のためにナミさんのそばにいるのか、どんどんわからなくなっていくんだ。オレはナミさんに必要とされてないんじゃないかって、不安になるんだ」
「そんなこと……!」
私にはサンジ君が必要だよ?
サンジ君がいなきゃ、ダメなんだよ?

「……自信が欲しいんだ」
「自信?」
サンジ君は静かにうなづいた。
「そう。オレがナミさんを愛し続けるために必要なモノさ。ナミさん、それをオレにくれるかい?」
「……どうやって?」
私がたずねると、サンジ君はタバコを落として、靴で軽く踏んで消した。
「オレの耳元で何度も言ってくれた言葉を、今度はオレの目を見て言ってくれればいい」
「……それだけでいいの?」
サンジ君は困った顔のまま笑って首をかしげた。
「それだけ……って、そんな簡単なもんじゃねえよ。ナミさんだって、ずっと言えなかっただろ?」
そう言われて、私はうつむいた。
「……ごめんね。でも、今ならちゃんと言えるから!」

うん、ちゃんと言える。
今度こそ、言えるわ。

大きく息を吸ってから、顔を上げて、しっかりとサンジ君の目を見た。
「私は……」
「ちょっと待って」
サンジ君が私に手のひらを向けてそれを止めた。
「今……一回言うだけじゃダメだよ?」
少しためらいがちにサンジ君は微笑んだ。
「ずっと言い続けてくれなきゃ、オレ、すぐに自信なくすよ?」
「……うん。言うよ? 何度でも」
「ずっとだよ? ずっと」
「……わかってる」
何度も何度もうなづいた。また涙があふれてきて、サンジ君の姿が見えなくなりそうだった。
「本当に……言ってくれる?」
「うん……!」
「オレがいいよって言うまで、言ってくれるかい?」
「うん……言うよ……?」
ふっ、とサンジ君の笑う息が聞こえた。

「……じゃあ、絶対に言わねえ」

その言葉の意味がわからなくて、問いかけようとしたけど、もう視界の半分が涙で遮られていた。残り半分の視界でとらえたサンジ君は、憎らしいほどに意地悪で、憎らしいほどに愛しい笑顔で私を見ていた。

「それなら死ぬまで、いいよなんて言ってやんねえ」

一瞬、時間が止まったような気がして、
でも、すぐ次の瞬間には、ポロポロと勝手に涙がこぼれ落ちて、言葉が流れ出した。
「何よ……いいよって言われたって、たとえやめろって言われたって……死ぬまで言い続けてやるんだから……!」
「……何て?」
そう言ってまた笑っているサンジ君の声が憎らしくて。目をこすりながら嗚咽まじりに声を出す。
「もう、バカぁ……!」
「ハハ……意地悪すぎるかな、オレ」
「そうよ! 人が真剣に言おうとしてるのに! バカサンジッ!!」
うつむいたままサンジ君に背を向けた。

再び風が吹いて、みかんの木がざわめき始めた。
見上げると、私たちを包み込むように風が舞っていた。
「……こんなこと、前にもあったな」
私が思うのと同時に、サンジ君が後ろでそう言った。
……うん、覚えてる。覚えてるよ?
みかんの香りがあたりを舞う
再び私を支配しようとする過去の記憶
でも、もう大丈夫
これがあのときと同じなら
私を引き留める声がするはずだから

「ナミさん」

ほら、ね

振り返ると
揺れるみかんの木の前で
両手を広げて、優しく微笑む
サンジ君の姿

「ナミさん……おいで……!」

もう、何も迷うものはないから
ただその胸に飛び込んでいくだけ
でもその前に、始まりの言葉を言わなきゃ
この揺るぎない思いをここから始めるための
大切な言葉を

「サンジ君……愛してる」

涙でぐしゃぐしゃの顔で私は笑った。
優しい目で、穏やかにサンジ君も微笑んだ。

「オレも……ナミさんを愛してるよ」

手を伸ばしてサンジ君の胸に飛び込んでいく。
私がそこにたどり着くよりも先に、
サンジ君の腕の強い力で腰を引き寄せられて。
次の瞬間には、胸と胸、頬と頬をぴったりとくっつけて、
私たちはしっかりと抱き合っていた。

 

みかんの木のざわめきに包まれて―――――



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