空に向かって続くみかん畑は、私の一番好きな場所だった。
ベルメールさんとノジコと一緒に、太陽の恵みをいっぱいに受けたみかんをひとつずつ、籠に入れていった。思い出すのは二人の笑顔。
悲しいときは、みかんの木の陰で泣いていた。ベルメールさんに怒られた後、ノジコとケンカした後。
私はいつもそこで泣いていた。柔らかな風が葉をゆらし、みかんの香りに包まれて私は眠っていた。
目を覚ましたら、きっと誰かが迎えに来てくれると信じて。
ベルメールさんが死んだ。ノジコと離ればなれになった。もう、誰も迎えに来てはくれない。
孤独の中で、私は必死に助けを求めた。それでも、私の声は届かない。
誰もいないみかん畑。私の声は届かない。
誰も助けてはくれない。
朝、目覚めると、誰かが部屋の扉をノックしていた。低血圧の重い体を無理矢理起こし、かすれた声で返事をした。
「ナミさん、起きてる? 食事はできそうかい?」
ものすごく心配そうなサンジ君の声。こんなことは初めてだ。
きっと、昨日のことを気にしてる。私が、サンジ君から 逃げ出したことを。
「うん……今行く」
なかなか出ない声を頑張って絞り出す。
「ホント? 良かったー。ナミさんに何かあったら、オレどうしようかと思ったよ」
ってきたのは、いつもと変わらないサンジ君の嬉しそうな声。
「着替えたらすぐ行くから」
「えっ、てことはナミさん今パジャマ? うは〜っ、着替えるの手伝おうか!」
扉の向こうでサンジ君がゆるんだ顔で笑っているのがわかる。
「自分でできるわよ、もうっ」
「えーっ、残念だなあ。じゃ、キッチンで待ってるよ」
その声を最後に、サンジ君がキッチンに戻っていく靴音が少しずつ遠ざかっていった。
何も変わらない、いつもどおりの朝。
キッチンに向かう途中で、一番最後に目覚めて、なおも目が半分閉じたまま歩いてくるゾロと一緒になった。
「おう」
「おはよ」
欠伸をしながら、ゾロは大切な刀に手をかけながらのろのろと歩いている。
「もういいのか?」
背中から問いかける。
「何が?」
私が問い返すと、ゾロはもう一度欠伸をして、頭をかいた。
「面倒臭ェよな、女ってのは」
ゾロがキッチンの扉にぶつかると、その勢いで扉が開いた。
突然飛び込んできたゾロに、ルフィもウソップもサンジ君も動きが止まったまま、目を丸くしていた。
「違うわよ、大バカッ!!」
仰向けに倒れたまま、ゾロは口元で笑った。
「なんだよ、元気じゃねェか」
「……バカ」
「お! いつものナミだ」
ルフィが口をいっぱいにしながら言った。
「サンジがよぉ、お前の分のケーキ食わせてくれねぇんだー。だからちゃんと残ってるぞ! しししっ!」
「最初からてめェにゃ食う権利はねーっつの!」
サンジ君がルフィのほっぺをつまんで伸ばした。
「ほぼべもー」
意味不明のルフィの言葉に、眉をつり上げていた私も吹き出してしまった。
ルフィもゾロも、時々こっちがドキッとするくらいするどい時がある。
私の考えてることなんてわかっていないくせに、私がして欲しいことを何の気なしにやってくれる。
ゾロ、私が部屋から出て来るのを待ってたんでしょ?
ルフィ、何で開口一番に「サンジ」って名前、出すのかなあ。
「おい、ちょっと待て? オレの分のケーキは?」
ウソップが思い出したようにサンジ君に尋ねた。
「何言ってんだてめェは。昨日いらねぇって言っただろーが」
「ウソつけーっ! オレはそんなこと言ってねえぞ!」
「ウソつくのはてめェだけで充分だ」
ウソップが最後の一皿に手を伸ばしながら、サンジ君に新しいのを作れと騒ぎ出した。サンジ君は私のためのケーキを守りながらウソップを足で押しのける。
「ウソップの分はオレが食ったぞ!」
にしししし、とルフィが満足そうに笑った。
「ルフィ〜ッ!!」
暴れるウソップをよそに、サンジ君が私の前に朝食と、そして昨日私が食べなかったケーキを置いた。昨日よりもきれいに、まわりにフルーツも盛りつけられていた。
「どうぞナミさん、召し上がれ。ナミさんのみかんソースは愛の味!」
無邪気に笑っているサンジ君の顔を見ていると、ウソップがうまく言ってくれたんだとホッとした。
「ナミ、いるのか?」
扉の向こうからウソップの声がした。
「開いてるわよ」
「入っていいか?」
もう一度確認するあたり、ウソップは気を遣い過ぎるところがある。扉が開いて、ウソップが入ってきた。
「もうとっくにメシの時間だぞ。食わねえのか?」
「うん……あんまり食欲がない」
「しかしなあ、お前。とりあえず何か食っとけ。オレが持ってきてやるから、な!」
ウソップが私の返事も聞かずに足早に階段を駆け上がっていった。
震えがまだ少し残っている。冷えた体を暖めようと、毛布にくるまった。それでも、指先は冷たいまま。
「オイ、何て格好してんだ!? 暑くねえのか?」
戻ってきたウソップが驚いた声を出した。
寒い
寒くて凍えそう。
「食えるか?」
震えながら私は首を横に振った。
「これでも食うか?」
そう言ってウソップはキズだらけのみかんを2つ差し出した。黙ってそれを受け取り、手の中で見つめた。
「階段の下に転がってたぞ。一体どうしたってんだ? サンジはみかんまみれで座り込んでたってゾロが言うしよお。まさかお前、本当にサンジに襲われたのか?」
本気で心配しているウソップが早口で言った。ココヤシ村を後にしてすぐ、ウソップが言った言葉を思い出した。
―――――あの新顔に襲われんなよ。
「あのヤロー、狭い船の上の秩序を乱すなってんだ。それくらいわかってんだろーが」
ウソップの正義感はこんなところにある。船の上にいる者全員が心地よく過ごせるように、ウソップはいつも気を遣っている。私を「女」としてみんなに意識させないように。だからサンジ君が船に乗ったときに気をつけろなんて言ったのね。でも。
「サンジ君はそんなことしないわよ」
「は?」
目をぱっちり大きくして、ウソップは私を見ていた。
「何言ってんだ? あの女好きは本当にみさかいねえんだって! オレはお前がいつあいつに襲われるんじゃないかって、ハラハラしてんだよ」
ウソップの心配そうな顔。でも、私は嬉しかった。ここまで私のことを気に懸けてくれている親友がいることが嬉しかった。
「バッカねえ、そんなに簡単に襲われるほど、私は」
そんなに簡単に襲われる……ほど 、私は?
体が冷えていく―――――
みかん畑の冷たい土。何もできない私はただ青い空を見ていた。
私の声は届かない。誰も助けてはくれない。
「ナミ! とにかく何か食え。ほら、このスープなんか温かいうちに飲めよ」
ウソップが震える私の手に無理矢理スプーンを握らせ、スープの皿を私に近づけた。パンを小さくちぎってくれ、肉を細かくほぐしてくれた。ウソップの優しさになすがままに、私は少しずつ食べ物を口にした。
「落ち着いたか?」
お皿がある程度きれいになったところで、ウソップが言った。食事をしたことで、私の体は少し温かくなり始めていた。
私は静かにうなづいた。ありがとう、ウソップ。
「……このケーキはどうする?」
みかんのソースがかかったケーキ。さっきまで、私とサンジ君で採っていたみかん。あっと言う間に、きらきらとした液体となってケーキの上にかかっている。
「きれいね」
しばらくケーキをながめていた。するとウソップがそのお皿をトレーに戻した。
「今日はやめとけ。これはサンジの前で食ってやれ」
空いたお皿をトレーにきれいに重ね、ウソップはそれを階段に置いて戻ってきた。
「ナミ、お前まだオレたちに何か隠してるだろ?」
私が落ち着いている様子を確認しながら、ウソップは穏やかに尋ねた。
「何って……何を?」
不思議と私は冷静だった。いつかは誰かがその質問をするだろうとわかっていたからなのか、それとも、もっと早くそれを聞いて欲しかったからなのかはわからない。
「隠しているっていうかよ、お前はまだ何かに怯えている」
人を好きになることに怯えている
そう言ったらあんたは怒るかしら? じゃあオレたちは何なんだってきっと怒るわね。それなら、こう言うわ。
人に愛されることに怯えている
「……するどいのね」
「そりゃあ、オレは何てったって、この船の影のキャプテンだからな!」
自信ありげにウソップは胸を叩く。
「ふふ、誰が言ったのよ、そんなこと」
「……私ね、サンジ君のことが怖いんだと思う」
「怖い? サンジを? 何だそりゃ。いつ襲われるかわかんねえからか?」
ウソップが眉をひそめて、鼻をこすった。私は笑って首を振った。
「ううん、優しすぎるから怖いの」
口を大きく開けたまま、しばらくウソップは私を呆然と見ていた。
「何言ってんだ? お前」
およそ私には似つかわしくない言葉だったらしく、ウソップは呆れた顔のまま腕を組んだ。
「お前なあ……あいつが本気なわけねえだろ」
ウソップのあまりにも断定的な言い方に、私は言葉を失った。
「本気でお前のことが好きだったら、あんな恥ずかしいこと臆面もなく人前で言えるわけねえだろうが。今、この船に女はナミ一人だからわかんねえだろうが、きっとこれから女が一人二人増えてみろ、全員に同じこと言うぜ、あの女好きは」
身振り手振りで得意気に話し始めるウソップを、私はただ見ていた。調子に乗ったウソップは、私の心の奥の重い扉を容赦なく押し開けた。
「なんだよ、オレはてっきりお前がアーロンに支配されていたころの恐怖体験でもひきずってるのかと思ってたんだが、サンジのことで悩んでるんだったら、それは取り越し苦労だな」
アーロンの支配……恐怖体験…
「やめてよ!!」
突然怒鳴った私に、ウソップは手を中途半端に宙に漂わせて止まった。
「おいおい……まさかお前本気でサンジのことが好きってんじゃないだろうなあ」
「そうよ、悪い?」
一瞬の沈黙。
「……マジかよ」
サンジ君に優しくされると、苦しくなる
汚れた自分は、優しくされる資格なんてないと思ってしまう
サンジ君はいつも私を「女」として見てくれる
女じゃなければよかったと涙を流した瞬間がよみがえる
好きになればなるほど、知られたくない過去が頭をもたげて私を支配してくる
だから、怖い
「あんたは何もわかってないのね、ウソップ。8年間、私がどんな思いでアーロンの元にいたのか。戦うこともできない、逃げ出すこともできない。心も体もボロボロにされた私の、絶望的なあの長い時間を、あんたは理解できるって言うの?」
村人たちは私を避けて家に入る。静まり返った村。
私はときどき家に戻っては、裏のみかん畑に隠れて泣いていた。
みかんの木の葉擦れの音と、甘酸っぱい香り。ベルメールさんの香り。私は安堵する。
魚人たちが私を探しに来て、私はいつもあの狭い部屋に戻された。
いつの間にか私の体は「女」になっていた。
みかん畑の土は冷たい。見えるのは青い空だけ。
心の痛みと、カラダの痛みと。
みかんの木の葉擦れの音と、甘酸っぱい香り。ベルメールさんの香り。
そして、恐怖と絶望の香り。
ずいぶんと長い間、ウソップは黙ってうつむいていた。
「オレは……どうすりゃいいんだ」
本当は、ウソップは聞くべきではなかった。私の過去の話など、私が心の中にとどめておけばそれでよかった。
でも、話したことで、ほんの少しだけ私の心は軽くなった。
「聞いてくれただけで随分と楽になったわ。ありがとう。でも、このことは誰にも言わないで。もちろん……サンジ君にも」
ウソップは苦しげな表情のまま、ゆっくりとうなづいた。
「誰にも言わねえよ。約束する。でも、今度から何かあったら必ずオレに話せよ? ひとりで悩むな」
「……ありがとう」
トレーを持って、ゆっくりと階段を上っていく。
「さあて、サンジのやつには何て説明すっかな。アイツのことだからきっと首を長くして待ってるぜ」
「ウソップ、お願いだから……」
「わかってるよ。今日の暑さでのぼせたってことにでもしておくよ」
そう言って、トレーを持ってない方の手をひらひらさせてウソップは部屋を出ていった。
扉が閉まるのを確認すると、私は脱力してソファに沈んだ。
本当はあのとき、期待していた。
もしかしたら、後ろから抱きしめてくれるんじゃないかって。
でも、葉擦れの音が大きすぎて、みかんの香りが強すぎて
何も聞こえなくなって、怖くて、逃げ出した
……サンジ君が、好き
でもこれは、口に出してはいけない言葉かもしれない。
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